日本の城跡

一宮城

本丸虎口
訪問日 H25年12月
ポイント 城は東竜王山の北東に延びた枝尾根の最先端にあり、本丸は山嶺に築かれ、石垣下は急傾斜になっている。北は鮎喰川、東は船戸川、園瀬川が天然の濠として、背後に四国山脈が控えている。一宮城は県内最大級の山城である。縄張りは本丸を中心に才蔵丸・明神丸・小倉丸等の曲輪を配置し、倉庫跡・畑跡・貯水池跡や、尾根筋には堀切・横堀・竪堀・小曲輪を配し強力な防御になっている。本丸の石垣は、徳島で産出例が多い結晶片岩の野面積で、角石は近世城郭初期に見られる立石を用いている。
印象 今回、一番の登山。一宮神社から登る。本丸までは石段が整備され登り易い。神宮寺跡を通り、倉庫跡へ。そこから市内方面が一望できる。途中、堀切・竪堀を見ながら、才蔵丸・明神丸へ。各郭は岩石を削って造っており、そのせいか土塁が見当たらない。その後石垣で固められた本丸へ。それがかっこいい。本丸を一周したが、草むした石垣が歴史を感じさせた。その後、釜床跡に下りて細尾根の道や堀底道を通って小倉丸に。途中に遍路道を発見、びっくりだ。更に大日寺への道の途中、きびしい岩石の割れ目を流れる影滝があり、神秘的な雰囲気だった。一宮神社近くに立派な2本の枝垂桜があり、桜満開の景色を楽しんだ。昼はやはりうどんを食す。
地図
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略史  阿波国守護の小笠原長房の四男小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、南北朝時代にこの地に新城を築き移り住み、城内に一宮神社の分霊を祀った。この頃北朝方の細川頼春は伊予の南朝方を切り崩し、ついで阿波の南朝方に鉾先を向けて一宮城を攻撃してきた。長宗は相次ぐ南朝方の敗北にもかかわらず降伏せず、南朝方に帰順した細川清氏の挙兵に参陣奮闘したが、清氏が細川頼之らの奇計によって戦死した為、やむなく北朝方に降った。長宗死後、一宮氏は細川氏の家臣となったが、細川氏に代わって三好氏が台頭すると家臣となり、十二代成助のときには三好氏と姻戚関係を結んで三好氏家臣団の中でも重要な地位を占めた。しかし三好長治が細川真之を討伐する為荒田野口に出陣すると、予てから長治と不和であった成助は伊沢氏らと挙兵し、勝瑞城に引き揚げる途中の長治を自刃させた。しかし三好の家臣矢野氏に伊沢氏が攻め滅ぼしたため、成助は孤立し、長曾我部元親に頼った。これをうけ、元親は阿波に侵攻、成助も勝瑞城攻めに出撃したが、一宮城に帰城途中に淡路軍の攻撃にあい、一旦は撃退したものの大軍に攻撃され城を脱出した。その後一宮城に復帰した成助は庄野氏らと勝瑞城を奪ったが、織田信長の支援をうけた前の城主十河存保に奪われた。更に一宮城に攻めかかる存保を成助は退けたが、信長の四国征伐の先鋒、三好康長軍のまえに一宮城は落城した。しかし本能寺の変が勃発し、三好康長は京に上がった為、元親はこの機をとらえて大軍を擁して阿波に侵入し、十河存保を破り阿波を平定した。その後、成助が一時三好康長と通じたとのことから、元親は成助ら阿波の武将を殺害した。ついで元親は一宮城に南城を増築し、北城(旧本城)、南城に家臣を入れて守らせたが、豊臣秀吉の四国征伐で秀長軍に開城した。そして蜂須賀家政が阿波に入部し、一宮城に入城したが翌年徳島に新城を築城した為、家臣の益田長行を城代として守備させた。しかし徳川幕府の一国一城令によって廃城となった。

登城道

神宮寺跡

倉庫跡へ


竪堀

登城道

急崖

曲輪切岸

曲輪


続く急崖

湧水

才蔵丸へ

才蔵丸と明神丸間の堀切

竪堀

才蔵丸虎口

同虎口内部より

才蔵丸

左明神丸、切岸

竪堀

門跡

門跡と明神丸へ

明神丸虎口

内部より明神丸虎口

明神丸


同から徳島市内方面・眉山

本丸手前の帯曲輪

本丸へ

本丸虎口

同左側石垣


同右側石垣


同振り返る

同野面積

本丸

同虎口内部より


本丸下の井戸跡?

本丸より、眼下に鮎喰川

本丸後ろの釜床跡

同から本丸切岸


同から本丸石垣

腰曲輪

投石用の石

堀切

横堀

堀切

花畑


堀底道の遍路道


小倉丸

同横堀

同櫓台

同土塁

竪堀

同付近から本丸方向

水手丸方面へ

堀底道

同を振り返る

貯水池跡へ

貯水池と堀跡


影滝


同の脇の遍路道

影滝周辺

神社への途中の枝垂桜

一宮神社



札所・大日寺