日本の城跡
勝瑞城(別称:阿波屋形・下屋形)
略史 室町時代初期、四国管領細川頼之は、幕府に反乱を起こし四国讃岐に逃れた従兄弟の細川清氏を幕命によって討ち滅ぼした。頼之は領国の阿波・讃岐を三分し、東讃岐を自分の領地とし、西讃岐を次弟の頼有に、阿波を弟詮春に与えた。そして詮春の館を阿波の本拠だった秋月城から小笠原氏の拠っていた井隈庄に移し、戦勝を記念して勝瑞と改めた。以後、220年間阿波の政治・文化の中心となり、京都の管領屋形に対して、阿波屋形・下屋形と呼ばれ、応仁の乱では細川勝元率いる東軍の後方拠点となった。戦国期には京都の細川澄之と阿波の細川澄元との間で争乱が勃発し、京都を巡って度々戦いを繰り返したが、阿波の国侍達が戦いの傷を癒し、再度出撃した拠点でもあった。その間、阿波守護細川家の配下である三好氏は勢力を拡大、兵権を握り、政治の乱れから起きたお家騒動に乗じて主君細川持隆を殺害して、勝瑞城に拠って実権を握った。織田信長の時代になり、土佐の長曾我部元親は讃岐に侵攻して十河(三好)存保が守る勝瑞城を攻め、存保は籠城して抵抗したが結局、讃岐虎丸城に逃れた。勝瑞城は破却され、更に後に阿波に入部した蜂須賀家政が徳島城を築城したとき、石塁や残った遺構の多くを持ち去った。 |