日本の城跡

今治城(別称:吹揚城)

遠望・天守閣・山里櫓・石垣・内堀
訪問日 H23年 2月
ポイント 今治城は蒼社川によって形成された三角州の左岸に位置する。北部には要衝来島海峡をひかえ、東部と北部は燧灘に面している。高虎は今治城を水陸交通の要として、更に芸予諸島を中心とした瀬戸内海の中央部の制海権を確保する拠点と目論んだ。城郭は外・中・内堀の三重の堀を廻らせ、そのいずれにも海水を導入した水城で、中心部に本丸・二の丸・三の丸を配置し、海に面する石垣の上には砲台を構え、船留りには軍船を繋いでいた。今治城は陸ではなく海を向いていた
印象 当地ではめずらしい暴風雪の警報が出ていた為心配したが、雪はなく強風のみだった。途中、四国随一の石鎚山が雪をかぶり、厳しい姿を見せていた。四国は山が海に迫り、平野が少ないのを痛感す。天守閣・櫓等復元され寒風吹きすさぶ中であったが見応えがあった。更に幅広い水堀、海石と山石を混合させた石垣、多聞櫓で隅櫓を連結させるなど近世城郭の完成された姿に感動した。
地図
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略史  今治地方は豊臣秀吉の四国征伐後、軍功のあった小早川隆景に与えられたが、入封ないまま筑前に転封。続いて福島正則がこの地を領し、湯築城から国分山城に入城したが、後に清州城へ転封となった。その後池田秀氏が入封したが、朝鮮の役で死亡。更に小川祐忠が入封したが、関ヶ原の役で西軍に加担した為所領没収、宇和島城主の藤堂高虎が伊予半国の20万石の太守となり国分山城を貰い受けた。しかし国分山城は河野氏代々の城地であり、あくまで河野氏の高縄山城の枝城を越えるものでなかった。この為高虎は政治的城郭の築城を決意、国分山城を廃して、今張浦に新城築城を開始した。6年を費やし完成したが、同年に高虎は伊勢の津に転封、高虎の養子高吉2万石の居城となった。しかし高吉も27年後に伊賀名張に転封、松山藩主久松松平定行の弟定房が入封した。定陳の時、兵学者江島氏を家老に登用し、農民の租税負担均等化や塩田の開拓、甘藷の試作、更には軍制、法令を改革し藩政を整備した。最後の定法は松山藩と同じく、新政府に恭順し御所の警備や征討軍に従軍し、会津戦争にも参戦した。明治維新まで10代在藩した。
山里櫓・天守閣
武具櫓・多聞櫓
侍町から山里櫓 城碑 船留り
三の丸山里門から侍町方面
三の丸山里門・山里櫓内側から 三の丸から天守閣 二の丸から本丸御門
同本丸から 吹上神社(本丸旧天守跡) 天守閣内部 天守より三の丸鉄御門方面 天守より三の丸山里櫓方面
本丸 二の丸・御金櫓方面 井戸・多聞櫓 武具櫓・多聞櫓 鉄御門・多聞櫓
同・武具櫓・土橋 北東方面から天守閣 御金櫓 東南方面から
南方面から
南西方面から
辰之口