日本の城跡
今治城(別称:吹揚城)
略史 今治地方は豊臣秀吉の四国征伐後、軍功のあった小早川隆景に与えられたが、入封ないまま筑前に転封。続いて福島正則がこの地を領し、湯築城から国分山城に入城したが、後に清州城へ転封となった。その後池田秀氏が入封したが、朝鮮の役で死亡。更に小川祐忠が入封したが、関ヶ原の役で西軍に加担した為所領没収、宇和島城主の藤堂高虎が伊予半国の20万石の太守となり国分山城を貰い受けた。しかし国分山城は河野氏代々の城地であり、あくまで河野氏の高縄山城の枝城を越えるものでなかった。この為高虎は政治的城郭の築城を決意、国分山城を廃して、今張浦に新城築城を開始した。6年を費やし完成したが、同年に高虎は伊勢の津に転封、高虎の養子高吉2万石の居城となった。しかし高吉も27年後に伊賀名張に転封、松山藩主久松松平定行の弟定房が入封した。定陳の時、兵学者江島氏を家老に登用し、農民の租税負担均等化や塩田の開拓、甘藷の試作、更には軍制、法令を改革し藩政を整備した。最後の定法は松山藩と同じく、新政府に恭順し御所の警備や征討軍に従軍し、会津戦争にも参戦した。明治維新まで10代在藩した。 |