日本の城跡
伊予松山城(別称:勝山城・金亀城)
略史 三河の下級武士の家に生まれた加藤嘉明は、幼い時に父母を失い、馬商人の馬引きなどをしていた。しかし長浜城下で羽柴秀吉の家来である、加藤左門に拾われ、秀吉の兵士となった。その後柴田勝家との賤ケ岳の合戦で、七本槍の一人として手柄をたて5千石を与えられ、二年後には伊予松前6万石の大名に取り立てられた。更に朝鮮の役の働きで9.7万石に加増、関ヶ原の合戦では東軍先鋒として石田三成軍を破るなど手柄を立て、伊予20万石の大大名に列せられた。嘉明は大身にふさわしい本拠を新築すべく、幕府の許可を得て現在の勝山に新城築城を開始した。勝山は130mの独立丘陵で、二つの峰を削って平地として本丸を置き、周囲を高い石垣で囲み、中腹に二の丸、山麓に三の丸を配し、土塁を築き堀を廻らした。石材は山から切り出したが、松前城・湯築城からも徴発した。嘉明は着工の翌年には工事中の城下に移り住み陣頭指揮をとり、百姓町人ら総動員しての大工事であった。13年後にほぼ原形ができ、ようやく26年後に完成に近づいたが、この年嘉明は会津若松40万石に転封となった。幕府は三堅城の一つと数えられた松山城に要注意の目を付けた証左であろう。会津での加藤家は二代でお家断絶領地没収という悲劇に終わった。嘉明に代って蒲生忠知が入城、現在の城郭に完成させたが、早死にし嗣子無く7年でお家断絶となった。続いて入城したのは親藩の久松松平定行で、五層の天守を三層に改築するなど幕府に姿勢を示した。そして殖産興業に務める等藩政の基礎を固めたが、天候不順・自然災害に悩まされた。中興の英主と言われた定通は倹約の励行、士風刷新の為の藩校の創設、農村立て直しの為の金融・備荒貯蓄等の施策を実施した。更に紙・蝋・綿・木綿の生産を育成した。しかし財政難は改善しないまま、幕末の勝成の時、危機的状況の中を長州征伐に四国軍の先鋒として出兵したが敗北し打撃を受けた。更に鳥羽伏見でも幕府軍として参戦した為朝敵として追討されるに及び、恭順、謹慎の上戦費を献上する等、新政府に接近した。こうして久松家は明治維新まで在藩した。 |