日本の城跡

伊予西条陣屋

西条陣屋跡(西条高校)・表門
訪問日 H23年 2月
ポイント 陣屋は東伊予の中央に位置している。南は石鎚山、北は瀬戸内の燧灘に面し、加茂川下流のデルタ地帯に築かれた。陣屋は藩主の政庁と住居を目的に構築されたものである為、薬医門の形式である。郭は平和時代を反映して単郭で方形の構えで、土塁・石垣等も直線的に走っている。海上交通を考え、海水を引き入れる為広い堀となっている。一部は舟溜りに使用されていた。
印象 西条高校が陣屋跡地に立っている、元気な生徒の声が聞こえてくる。正面に陣屋表門がどっしりと控え、広い堀に水を満々とたたえ、海に近いせいかたくさんのカモメが羽を休めていた。方形の陣屋の遺構は表門のほか一部を除き、土塁・石垣・水堀が四周を取り囲み残っていた。ふと見た石鎚山の厳しさが印象的だった。
地図
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略史  初代藩主として伊予河野氏の庶流である一柳直盛が伊勢神戸から入封途中、大阪で病没した。その為長男直重が遺領のうち3万石で西条に入封、更に次男直家が2,8万石で川之江藩を、三男直頼が1万石で小松藩を立藩している。直重は入封後ただちに方形の陣屋を築き、四方を堀で囲み、城下の経営に当った。しかし子直興の時、参勤遅参や領内仕置き不都合を理由に改易、除封され、幕府直轄地となった。その後紀伊徳川頼宣の次男、松平頼純が3万石で入封、以後10代、明治維新まで在藩した。西条松平氏は分家ではあるが、独立の藩としての活躍はなく、紀州徳川家の出先機関的存在であり、宗家との間で藩主の相互派遣をしている。更に定府であった為、藩主は殆んど江戸におり、留守家老が藩政を仕切っていたが、塩田の開拓、奉書紙の生産を奨励している。幕末は勤王に統一、鳥羽伏見で新政府軍に参陣している。
薬医門の表門 腰巻式石垣の土塁 移築北御門
水堀 藩校跡 水堀
同・石鎚山