日本の城跡
川之江城(別称:仏殿城・土肥城)
略史 室町初期、伊予の太守河野通政が讃岐守護の細川氏の侵攻に備えて川之江に築城を決め、家臣の土肥義昌の命じた。義昌は鷲尾山が海陸の要衝で阿・讃・土に対する防御に適した地として、山頂に比叡山の僧、源信が建てた仏堂を城地に取り入れて築城した。5年後細川頼春が7千騎をもって来襲、城方の奮戦むなしく落城、義昌は敗走した。しかしその後も河野氏と細川氏の境目の城として再三、合戦の舞台となっている。戦国期には讃岐の細川・阿波の三好・土佐の長宗我部氏と伊予の河野氏の間で争奪戦が行われたが、豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景軍に攻め落とされ、以後川之江城は廃城となった。 |