日本の城跡
宇和島城(別称:板島丸串城・鶴島城)
略史 宇和島城の前身、丸串城は宇和地方を支配していた西園寺氏の麾下の家藤信種が城主となっていたが、黒瀬城を本拠とする西園寺公広は豊後の国の大友氏の侵攻に警戒すべく、弟の宣久を亀ヶ淵城から丸串城に移し備えた。豊臣秀吉の四国平定後小早川隆景が伊予を領有し、家臣の持田右京を城代としたが、隆景が転封となり戸田勝隆が宇和・喜多両郡を領有入封した。その後籐堂高虎が宇和郡を領して丸串城を本城とし、九年をかけて本格的な近世城郭を造り、板島城と称した。高虎は関ヶ原の軍功で伊予半国に加増され、今治城を居城とし当城に城代を置いたが、その後伊勢に転封となり富田信高が入城した。しかし富田氏は津和野城主坂崎直盛と争って改易、天領後に仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が入封立藩、以後九代続いて明治を至っている。秀宗は就封費用や大阪城修築助役費用、更にそれまでの治世の乱れ等から財政は逼迫し、民衆は重税にあえいでいた。秀宗は山家清兵衛を総奉行として改革を断行、租税の軽減・農耕の奨励・家臣の俸禄の削減を実施、清兵衛の暗殺事件を起したが財政の基礎を固めた。その後も自然災害等から財政は窮乏したが、農地改革や倹約令、蝋・紙の生産統制、鰯の加工販売等殖産興業を実施、積極策で再建した。幕末、四賢侯の一人といわれた宗城は藩内諸産業の富国政策の推進や軍制改革を推進、洋式砲術を導入し砲台を築城した。また高野長英を城下に保護し洋学を開花させた。薩摩・土佐・福井藩と開国通商の態度を表明していた為、安政の井伊直弼の専権で謹慎処分を受けたが、その後も中央政界で活躍し王政復古後、議定・参議に任ぜられ大蔵卿にもなった。 |
三の丸跡の桑折氏武家屋敷長屋門 | 同上から | 三の丸石垣 | 同 | |
長門丸下の切岸 | 同 | 長門丸石垣・腰曲輪 | 同 | 長門丸石垣 |
長門丸多聞櫓跡 | 同にある配水池 | 同多聞櫓跡 | 同西隅櫓跡 | 同石垣 |
同北隅櫓跡 | 同 | 同から石垣と下の腰曲輪 | 同の切岸 | 同と前方の籐兵衛丸 |
籐兵衛丸石垣 | 同 | 同上から | 同雷門外虎口 | 同桝形 |
同雷門跡 | 同内部より | 同・山里倉庫(旧武器庫を移築) | 同八束兄弟(旧家臣の子)の生家長屋門 | |
同 | 同石垣 | 同 | 二の丸石垣 | 同 |
同 | 二の丸から市内 | 同から宇和島湾 | 二の丸・本丸石垣 | 二の丸・御算用櫓跡 |
三の門跡方面・本丸石垣 | 同・腰曲輪・御書物櫓跡 | 二の門跡 | 本丸石垣・腰曲輪 | 本丸一の門(櫛形門)跡 |
同内部から | 同櫛形櫓跡 | 同北隅櫓跡 | 同鉄砲櫓跡 | 同御大所跡 |
同天守・手前に井戸跡 | 同 | 伊達氏紋 | ||
天守内部 | 同 | 天守より本丸 | ||
古写真・豊後橋 | 同・搦め手門 | 同・三の丸外側の黒門櫓 | 代右衛門丸方面 | 雷門下の石垣 |
同 | 代右衛門丸石垣 | 同下の切岸 | 同石垣 | 同 |
腰曲輪 | 代右衛門丸櫓台石垣と式部丸石垣 | 式部丸石垣 | 同 | |
同 | 同 | 同 | 同・搦め手道虎口 | |
同 | 上り立ち門からの搦め手道、左御番屋跡・右御作事跡 | 同の石垣 | 上り立ち門 | 同・搦め手道 |
井戸丸 | 追手門碑 | 追手門跡 | 大手門脇の武家屋敷跡からの遠望 | |
天赦園 | 同 | 伊達氏館跡正門 | 遠望 | 同 |