日本の城跡
湯築城(別称:湯月城)
略史 源平合戦で源氏方として活躍した伊予の豪族河野通信は軍功により、加領のうえ国内御家人32人を指揮下に置く地位を獲得した。承久の変で一時衰退したが、一族の内で幕府方に属していた通有が、元寇の時武勲をあげ家運を盛り返した。南北朝争乱期には通有の子、通盛が足利尊氏に臣従して戦功を重ねた結果、河野氏の総領となり更に通信時代の旧領を回復した。通盛は総領家の権威を固めるべく、高縄城から本拠地を交通上の要衝である道後に湯築城を築城し移した。以来武門の河野氏と言われ、南朝方の一族や忽那・村上氏らと、あるいは讃岐の細川氏、土佐の長宗我部氏と戦火を交えた。戦国期には村上水軍と手を結んだ13代通直は戦国大名に成長したが、次の通政へ決定の際の内紛のしこりから、村上水軍が離叛した。豊臣秀吉の四国征伐では村上水軍が小早川隆景の先鋒を務めた。交戦1ヶ月後、河野氏は降伏開城し、湯築城主は伊予一国を所領した小早川隆景となった。その後福島正則が入城したが、1年後に国分山城に移った。関ヶ原後、伊予の国主になった加藤嘉明は、松山城築城にかかり、湯築城の資材を持ち去った為湯築城は完全に廃城となった。なお河野氏は降伏後、毛利氏の好意で安芸の竹原に移り住んだ後死亡、河野氏は滅んだ。 |