日本の城跡

丸亀城(別称:亀山城・蓬莱城)

ヨーロッパの城の風格をもつ丸亀城
訪問日 H23年 2月
ポイント 城は丸亀平野の北端に位置する亀山に築かれた平山城。階郭式縄張で階段状にに曲輪が配置され、そこに三重三段に積み上げられた高石垣は総高50m強におよび日本一の規模である。更に野面積みで三段四面にめぐらされているのは他に例がなく、また所々に残る算木積みの直線美、”扇の勾配”の優雅な曲線美に目を見張る。天守は現存十二天守の中で最小規模、旧藩時代は幕府に遠慮した為か”櫓”と称した。しかしたくみに配合された破風や軒裏化粧によって豪華さを増大する工夫がされ、威風堂々とした感じを与えている。大手は一の門と二の門で構成されており、高麗門の二の門をくぐり枡形に入ると右手に一の門となる太鼓門があるという形態は近世城郭の枡形虎口の完成した姿。
印象 是非とも行きたかった城の一つ。大手から見たそそり立つ三段の石垣にまず圧倒される。また寒風吹きつける中、尖った刃を突き付けられているような城でもあった。どんと控える高麗門をくぐり、雪どけの長く急な見返り坂を登っていくと、三の丸の石垣がかぶさってくる。三の丸月見櫓台から見る瀬戸内海・讃岐富士も良し。ここには移築された京極氏の控屋敷があり、藩主の居間が見られた。更に二の丸に続く算木積みの石垣が目を引く。そして本丸へ、三層の天守は下で見るよりは小さい感じだ。中に入ると質実剛健、狭間・武者窓以外にはなんの飾りはない、まさに戦いの建物であった。今回は搦め手口の石垣群を歩けなかったのが残念。機会を設けて再訪したい。
地図
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略史  室町時代、讃岐の管領細川頼之の重臣で宇多津聖通寺城主奈良元安が亀山に砦を築いた。戦国時代に長宗我部元親に滅ぼされたが、長宗我部氏も豊臣秀吉四国討伐で降伏、讃岐は秀吉家臣の仙石秀久らに与えられたが失脚、豊臣三中老の生駒親正が入封した。親正は高松城を築城して本拠としたが、西讃の押さえとして亀山に新城築城を開始した。関ヶ原合戦で親正は西軍に、嫡男一正は東軍に分かれた為、戦後一正が讃岐藩主となったが新城も二年後完成し丸亀城と称した。しかし元和の一国一城令でこの丸亀城は廃城となったが、万一に備え土を盛って石垣を隠し、樹木を植えるなどしてカムフラージュしたという。生駒氏のこのような深慮遠謀も四代五十四年でお家騒動の為、出羽矢島一万石へ転封となった。その後讃岐は二分され東讃は松平頼重が、西讃は九州天草から山崎家治が入封した。家治は城の再建に着手し、現在の美しい大石垣をもつ丸亀城の姿が出来あがった。しかし山崎氏も三代十七年で後継続かず改易、播州龍野城から京極高和が入封した。二年後現在の天守が完成、大手門の移転・御殿の建設等一応の修築を終え、城下町の整備、新田の開発に着手した。高朗の時、藩校を増設した他、家臣に団扇製造を奨励、また港を築造し、瀬戸内随一の良港として繁栄した。戊辰時は新政府側に従って行動した。京極氏は七代二百二十年在藩し明治を迎えた。
遠望
大手二の門(高麗門)
一の門(太鼓門)と二の門(高麗門) 大手より内堀(左側)
同(右側)
二の門内側
大手枡形石垣
一の門(太鼓門)
同内側
見返り坂左側の山下屋敷跡
   見返り坂と三の丸石垣
同・腰郭
三の丸へ
三の丸石垣
三の丸虎口から同腰郭櫓台・市内・瀬戸内方面 同腰郭石垣  三の丸石垣 讃岐富士  三の丸から二の丸石垣
三の丸に移築された京極氏の控屋敷・延寿閣
三の丸月見櫓台と讃岐富士
二の丸虎口・算木積石垣
同内側より
二の丸櫓台 二の丸より搦め手方面
二の丸
  同から本丸天守・石垣 本丸虎口
同内側より
本丸櫓台  本丸より搦め手方面 本丸より二の丸搦め手・櫓台 本丸より大手・御殿番所長屋
天守 同・京極氏瓦紋  天守
本丸・櫓台
御殿方向
同庭園
御殿表門
同番所
御殿跡