日本の城跡

多度津陣屋(別称:御殿)

浅見氏屋敷跡(資料館)
訪問日 H23年 2月
ポイント 多度津は古来より宇多津と共に、西讃屈指の要港として栄え、近世には金毘羅街道の起点としても賑った。また守護所宇多津に隣接することもあって、讃岐守護細川氏が重視し、守護代香川氏が多度津城を構えていた。陣屋は瀬戸内海に突出した砂州上に石垣で築き固めた。陣屋は御殿を中心とする主郭と、蓮堀を挟んで家中と呼ばれる武家屋敷が大手筋を中心に鉤の手状の小路に配されていた。
印象 御殿跡はJRの工場になり、遺構は全く残っていない。ただ、家中屋敷跡には陣屋時代の雰囲気が感じられる遺構があるとのことで期待したが、開発や建替え等でやはり減ったようだ。それでも家中の道筋は今でも鉤の手状の袋小路になり、随所に蔵・武家屋敷が残っており、それなりに楽しめた。しかしこれらもいつまで残るか心配だ。
地図
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略史  山崎氏改易後、京極高和が播磨より入封し丸亀藩初代となった。二代高豊は嫡子高或が幼少であった為、万一を考え藩主の控えとして、1694年に庶長子の高通に一万石を分知して多度津藩を立藩した。しかし多度津藩は城郭の構築は許されず、別館とわずかな家臣の派遣のみで藩政は丸亀城内で行われた。ようやく1826年に四代高賢のとき陣屋の構築が許され入部、次の高琢は多度津港を築造整備し、物資の集散地として繁栄させた。幕末六代高典の時、勤王方として鳥羽伏見、戊辰戦争に参陣し、朝敵高松藩追討の先鋒となった。
お舟だまり跡 浅見氏門(内側) 東御殿跡 大手東門跡周辺
家中屋敷 蓮堀跡 家中屋敷
  石橋門・正面は御殿跡
御殿跡
琴平への道標
鉤の手状の道