日本の城跡
高松城(別称:玉藻城)
略史 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は生駒親正に十七万石をもって讃岐の太守を任命した。生駒氏はまず引田の古城に入城したが、東讃にかたより過ぎていた為、西讃宇多津の聖通寺城に移った。当城は秀吉の四国征伐の軍功で仙石秀久が居城した城だが、山城であった為新たな城地を探し、ここ天然の要害の地玉藻浦に三年を要して築城した。生駒氏は関ヶ原の合戦では、嫡子一正を徳川家康方に、親正は豊臣方に属し戦った。戦後、讃岐藩生駒家は一正が藩主となり、親正は高野山に登って謹慎した。しかし、四代高俊の時に藩政は大いに乱れた”生駒騒動”で、高俊は一万石に減封の上、出羽矢島に転封となった。その後、西条・大洲・今治の三藩主が讃岐を治めた後に、徳川家康の孫で、水戸光圀の実兄の水戸頼房の長子、松平頼重が讃岐の東半分の十二万石で入封し、家光より中・四国の監察役を命じられた。なお西半分は丸亀に山崎家治が入城した。しかし高松藩も倹約令・家臣の俸禄打ち切り等断行したが財政難は続いた。頼恭の時、薩摩から砂糖黍を輸入し白砂糖の製造に成功、更に坂出塩田を完成し、製糖・木綿と共に讃岐の三白と言われ財政立て直しに成功した。しかし頼儀の時、放漫経営や江戸屋敷火災等の出費から財政は破綻した。次の頼恕は坂出塩田の拡張や砂糖生産の奨励、溜池の築造等を実施し財政を再建した。最後の頼聡は鳥羽伏見で会津と共に参戦し、朝敵として追討を受けたが謹慎・恭順し謝罪した。 |