日本の城跡

高松城(別称:玉藻城)

艮櫓
訪問日 H23年 2月
ポイント 日本三大水城の一つ。北は海、西は西方寺山、東に春日川と詰田川が流れ、南には石清尾山、紫雲山の一部を擁する天然の要害。城郭は三重の堀で外部との接続を仕切り、すべての堀に海水を導いた海に浮く城”水城”で城壁が瀬戸内海に直接面し、城内に舟入が設けられていた。本丸は広い内堀の中に独立し、木橋一本で二の丸に通じている。天守は小倉城を模した三重四階の南蛮造り。本丸の地久櫓、二の丸の黒鉄櫓、三の丸の龍櫓、桜の馬場の太鼓櫓、東の丸の艮櫓、新曲輪の月見櫓等、十八基の大小天守や櫓があがっていた。中でも月見櫓は三層三階の入母屋造りの白亜の櫓で、続櫓につづいて藩主が乗船したとされる水手御門と渡櫓が並んでいた。往時は月見櫓を波が洗っており、海手出入りの監視防備の為の隅櫓であった。
印象 雪の為、JRで岡山から高松へ。初めての瀬戸大橋線に感激!昭和五十年頃に一度訪問しているが、瀬戸大橋線の開通で高松港周辺は激変、お城も復元整備が進んでいた。高い石垣ではないが、野面積み・切込ハギなどの時代を反映した石垣が海水の堀に映りきれいだ。本丸は修理中で入れず残念だったが、本丸・二の丸・三の丸等が内堀・中堀の中に浮かんでいるようで、まさしく水城だ。更に月見櫓に続く水手御門の石段が水に洗われており、今にも藩主の舟の出入りがありそうな雰囲気であった。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は生駒親正に十七万石をもって讃岐の太守を任命した。生駒氏はまず引田の古城に入城したが、東讃にかたより過ぎていた為、西讃宇多津の聖通寺城に移った。当城は秀吉の四国征伐の軍功で仙石秀久が居城した城だが、山城であった為新たな城地を探し、ここ天然の要害の地玉藻浦に三年を要して築城した。生駒氏は関ヶ原の合戦では、嫡子一正を徳川家康方に、親正は豊臣方に属し戦った。戦後、讃岐藩生駒家は一正が藩主となり、親正は高野山に登って謹慎した。しかし、四代高俊の時に藩政は大いに乱れた”生駒騒動”で、高俊は一万石に減封の上、出羽矢島に転封となった。その後、西条・大洲・今治の三藩主が讃岐を治めた後に、徳川家康の孫で、水戸光圀の実兄の水戸頼房の長子、松平頼重が讃岐の東半分の十二万石で入封し、家光より中・四国の監察役を命じられた。なお西半分は丸亀に山崎家治が入城した。しかし高松藩も倹約令・家臣の俸禄打ち切り等断行したが財政難は続いた。頼恭の時、薩摩から砂糖黍を輸入し白砂糖の製造に成功、更に坂出塩田を完成し、製糖・木綿と共に讃岐の三白と言われ財政立て直しに成功した。しかし頼儀の時、放漫経営や江戸屋敷火災等の出費から財政は破綻した。次の頼恕は坂出塩田の拡張や砂糖生産の奨励、溜池の築造等を実施し財政を再建した。最後の頼聡は鳥羽伏見で会津と共に参戦し、朝敵として追討を受けたが謹慎・恭順し謝罪した。
二の丸黒鉄門跡・手前に内堀と西の丸があった 二の丸弼櫓台・石垣
二の丸廉櫓台
二の丸から三の丸黒鉄門跡・黒鉄櫓台 二の丸文櫓台
二の丸からの木橋(鞘橋) 二の丸石垣 三の丸黒鉄門石垣 三の丸内堀・海水門
三の丸の瀬戸内海に面していた石垣
三の丸石垣と水手御門の渡櫓
北新曲輪の月見櫓・続櫓・水手御門・渡櫓
同を海側より見る
北新曲輪鹿櫓台
北新曲輪と同石垣上武者走り
三の丸御殿庭園・月見櫓
同御殿跡に立つ披雲閣
本丸天守台
三の丸桜門跡と後方のかざしの石垣
桜門前から東の丸跡方向
桜の馬場
桜の馬場御門跡
桜の馬場の太鼓櫓跡に立つ艮櫓
旭門・旭橋
桜の馬場御門跡
同中堀
二の丸武櫓台と瀬戸内海に面した石垣
同石垣と三の丸内堀の海水門の海側
同石垣と月見櫓・続櫓・水手御門・渡櫓群
本丸・矩櫓台と内堀跡に走る琴平電鉄