日本の城跡
本山土居
略史 本山氏の土居の一つで、戦国末期の長宗我部検地の時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入部後は山内刑部が千三百石を与えられ住んだが、子の但馬は私曲の罪によって知行を没収され佐川の深尾家に預けられた為、土居は一時不在となった。その後野中直継が加増の上土居を預けられ、養嗣子の兼山が後を継いだ。兼山は藩主の厚い信頼を得て、奉行として能力を発揮したが、本山の領主としても吉野川の支流の樫ノ川や木能津川に下津野堰、井口堰等いくつかの堰を設けて用水を引き、多くの新田を開発し、現在にまでその余沢を及ぼしている。また「本山掟」は兼山と領民をつなぐ歴史的文書である。兼山失脚後、土居は山内下総、孕石頼母らによって管理されたが、明治に破却された。 |