日本の城跡

本山城

詰の段の城碑
訪問日 H24年11月
ポイント 「四国三郎」の異名をもつ吉野川の南に東西に延びる田井山の東端近くから北に延びた尾根の先端部にある。その為尾根を切断して守りを固めるべく、詰の段の南端から南に20m程切り取った大堀切で造った独立地に、詰の段・二の段・三の段、そして尾根を削り取った曲輪で階段状に構成し、東と西は崖になっている。典型的な中世山城である。
印象 高知市内からレンタカーでの出だしに失敗、一時間損する。やっと吉野川沿いの本山町に着く。城の下の神社に駐車出来そうだが、急坂ということで下のコミュニテ―に車を置かしてもらう。神社で雑草取りをしていた地元の人に道を聞き、墓地の中のきつい坂道を登る。いくつかの曲輪を通り、三の段・二の段・詰の段へ。詰の段は狭い。早速、青大将の出迎いを受ける。詰の段周り、虎口に石垣が残る。二の段に立派な石垣が残っていたが、これは近年住んでいた森林測候所の人が射的場として造成したものらしい。昔の山城といった感じ。地元のおばさんが城跡は雑草で大変だよと、注意されたように下山したらズボンに雑草の種がびっしり、取るのに苦労した。
地図
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略史  本山城主本山氏の祖は但馬の豪族八木氏で、本山に居住して本山氏を名乗った。本山氏は阿波小笠原氏と争う等して本山の支配を確立、周辺豪族とも和を結んで基盤を固めていった。更に吉良氏や山田氏と共謀して長宗我部兼序を討ち滅ぼし、土佐随一の豪族になった。長宗我部国親は中村の一条氏を頼り、かろうじて領土を保った。戦国期には土佐の守護領国制が崩壊した隙に、山間部を領域とし経済的な基盤が弱かった本山梅慶は本山城を子の茂辰に任せ、土佐中央平野部に南下し朝倉城を築いた。そして梅慶は朝倉城を本拠に土佐七豪族の一人吉良氏を攻め滅ぼし、更に土佐国司一条氏方の諸城を攻めるなど勢力を拡大していった。しかし長宗我部国親は岡豊城に復帰後、次第に力を蓄え、梅慶死後、後継の茂辰の時代に入ると反攻を始め、一進一退の攻防を繰り返しつつ勢力を削いでいった。そして長浜の戦いで茂辰は国親に敗れ、次いで国親の後継元親との朝倉合戦では善戦するも配下の武将の離反もあり、城を焼いて元々の本拠である本山城に撤退した。しかし元親の侵攻は厳しく茂辰の後継の貞茂は本山城を棄て、奥地の瓜生野城に立て籠もり抗戦したが、元親の圧迫に抗しきれずに降伏、長宗我部氏の一門衆になった。本山城は廃城に。
本山土居からの遠望 十二所神社
登城途中
曲輪 二の段へ 二の段
二の段から詰の段方面 二の段 詰の段虎口 詰の段石垣(二の段側)
詰の段虎口 詰の段
詰の段から三の段側への急崖 詰の段南側の堀切
詰の段石垣
詰の段から三の段 三の段 同(後世の石垣) 同(同) 三の段から詰の段切岸(石垣は後世)
同(同) 同反対側から 同石垣(後世の物)) 同・急崖
山麓 城の反対側の雁山(眼下に本山町)