日本の城跡
浦戸城
略史 当地には鎌倉末期に土豪の砦があったが、戦国時代に長岡郡本山に拠点を持つ本山梅慶が土佐中央部の山地から海岸まで勢力を伸ばし、岡豊城主長宗我部国親方の種崎城に対抗すべく。長浜城と共に築城した。しかし戦国末期に長宗我部国親に攻め落とされ一族が入城した。長宗我部氏は元親が後継となり勢力を拡大して四国全土を征服した。だが豊臣秀吉の四国征伐にあい、三国を没収され土佐一国の領主となった。元親は先祖伝来の岡豊城を廃し、大高坂(現高知城)に新城の築城を図ったが、治水工事に失敗、浦戸城を改修強化して本拠を移した。しかし元親の後継盛親は関ヶ原の役で西軍に与した為除封となり、替って山内一豊が土佐に入封した。そして城受取りに井伊直政の家臣鈴木平兵衛らが来た時、長宗我部軍の中心であった一領具足達が抵抗して入城を拒んだ。その後一領具足273人は山内氏家老達の騙し討ちで殺害され、城は奪取され、更に一豊入城祝いの相撲大会にことよせて一領具足の残党を殺害、浦戸一揆が終息した。一豊は城地が狭く城下町の形成が難しかったことや、長宗我部氏の強い縁を嫌い高知城の築城を始め、高知城の完成後浦戸城は廃城となった。 |