日本の城跡
松倉城(別称:鹿熊城・金山城)
略史 1335年頃の築城といわれる。南北朝期には、普門氏、桃井氏らが城主として争奪戦が繰り広げられた。その後、越中守護畠山基国が、松倉城の椎名氏を守護代として新川郡の統治を委ねた為、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。戦国期、新川郡の守護代は越後の長尾氏に与えられたが、現地支配は椎名氏に任せた。ところが椎名康胤が主君の上杉氏から武田氏に寝返った為、上杉勢に攻められ椎名氏は松倉を追われた。その後は上杉氏の有力武将・河田長親が入城し、魚津城とともに越中における上杉氏の重要拠点となった。増山城を本拠とする守護代の神保氏の攻撃も撃退している。織田信長の越中侵攻で、魚津城落城直後に松倉城も織田軍の手に落ちたが、本能寺の変で織田軍は全軍撤退した為、再度上杉方が奪還した。しかし翌年、佐々成政の攻撃で降伏開城、上杉氏は魚津城とともに越中拠点を失った。佐々氏が肥後に移封後、前田氏が領有したが、新川郡の中心は魚津に移され、慶長年間に廃城となった。 |
主郭下の城碑 |
主郭周辺の塁壁 |
主郭へ |
主郭と二の郭間の堀切 |
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主郭から堀切を見る |
主郭から二の郭方面 |
主郭下の腰郭 |
同 |
主郭 |
主郭・櫓台方面 |
主郭 |
櫓台 |
同 |
同 |
主郭先の詰郭 |
その間の深い堀切 |
詰郭 |
詰郭から主郭方面 |
主郭側の堀切塁壁を登って帰る |
アルプスの眺望 |
魚津方面と升形山城 |
主郭塁壁 |
主郭周辺の断崖 |
二の郭塁壁 |
二の郭 |
同 |
同 |
二の郭から主郭方面 |
二の郭下の郭 |
竪堀 |
二の郭と三の郭間の堀切 |
同 |
三の郭虎口 |
三の郭 |
三の郭・土塁 |
同 |
三の郭下の郭 |
堀切を挟んで四の郭方面 |
四の郭方面 |
三の郭と四の郭間の堀切 |
同の竪堀 |
四の郭塁壁 |
同 |
四の郭 |
同・土塁 |
同 |
同の先端 |
四の丸先の大堀切 |
同 |
四の郭急崖 |
四の郭塁壁 |
山奥の棚田 |
山間の農家 |
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