日本の城跡

松倉城(別称:鹿熊城・金山城)


二の郭から主郭方面
訪問日 H29年 3月
ポイント 越中最大級の山城。東の片貝川、西の早月川という天然の堀に守られ、城は松倉山の山頂にある。海岸沿いに走る北陸街道と、東は坪野から片貝川方面へ、西は石の門から早月川方面へと東西に結ばれていた山街道を監視できた。城は三方は断崖で、稜線尾根を堀切で仕切られた五つの郭が連郭式に南北1Kmに及んでいる。各郭は大きくまとまった平場になっており、相当数の兵の駐屯が可能なまさに天然の要害で、難攻不落の城郭。更に近くに豊富な産出量を誇る松倉金山がある。山頂からの眺望は良く、新川地区が一望でき、快晴であれば能登半島が望める。
印象 鹿熊城の別名通り、特に熊に要注意だ。道路はあるが道が狭い為タクシーで主郭下の駐車場まで行く。かなりの山奥で、急崖に棚田が整備され、大きな農家があったりと感心しきり。またサルの家族が棚田で餌を探していたのにびっくり。駐車場から主郭に登っていくと、二の郭との間に深く大きな堀切があり、いよいよ来たなと身震いする。主郭は結構広く、三方は断崖で、奥に一段高く櫓台がある。更にその奥に大きな堀切で仕切られた詰郭があった。屋敷地であろう大見城平方面は道が分からず断念。その後二の郭・蔵跡・三の郭・四の郭に行くも、各郭は山城にしては広く、更に深く、広い堀切で固めていた。見ごたえ十分な城郭だった。山頂からの眺望もすばらしい。
地図
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略史  1335年頃の築城といわれる。南北朝期には、普門氏、桃井氏らが城主として争奪戦が繰り広げられた。その後、越中守護畠山基国が、松倉城の椎名氏を守護代として新川郡の統治を委ねた為、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。戦国期、新川郡の守護代は越後の長尾氏に与えられたが、現地支配は椎名氏に任せた。ところが椎名康胤が主君の上杉氏から武田氏に寝返った為、上杉勢に攻められ椎名氏は松倉を追われた。その後は上杉氏の有力武将・河田長親が入城し、魚津城とともに越中における上杉氏の重要拠点となった。増山城を本拠とする守護代の神保氏の攻撃も撃退している。織田信長の越中侵攻で、魚津城落城直後に松倉城も織田軍の手に落ちたが、本能寺の変で織田軍は全軍撤退した為、再度上杉方が奪還した。しかし翌年、佐々成政の攻撃で降伏開城、上杉氏は魚津城とともに越中拠点を失った。佐々氏が肥後に移封後、前田氏が領有したが、新川郡の中心は魚津に移され、慶長年間に廃城となった。

主郭下の城碑

主郭周辺の塁壁

主郭へ

主郭と二の郭間の堀切

主郭から堀切を見る

主郭から二の郭方面

主郭下の腰郭


主郭

主郭・櫓台方面

主郭

櫓台



主郭先の詰郭

その間の深い堀切

詰郭

詰郭から主郭方面

主郭側の堀切塁壁を登って帰る

アルプスの眺望

魚津方面と升形山城

主郭塁壁

主郭周辺の断崖

二の郭塁壁

二の郭



二の郭から主郭方面

二の郭下の郭

竪堀

二の郭と三の郭間の堀切


三の郭虎口

三の郭

三の郭・土塁


三の郭下の郭

堀切を挟んで四の郭方面

四の郭方面

三の郭と四の郭間の堀切

同の竪堀

四の郭塁壁


四の郭

同・土塁


同の先端

四の丸先の大堀切


四の郭急崖

四の郭塁壁

山奥の棚田

山間の農家