日本の城跡

増山城(別称:和田城)


安室屋敷の巨大堀切
訪問日 H28年11月
ポイント 越中三大山城の一つ。対岸の福岡・宮森新・東保所を通る道は巡見使道で、城の背後は婦負郡長沢とも山伝いの道で結ばれる等交通の要衝である。和田川に沿った100m余りの絶壁の上に位置する大規模山城。城の主郭は標高が最も高く、規模も大きく、北東隅に櫓台をもつ二の丸である。そして四方に一の丸、安室屋敷、三の丸、無常の郭群を配置している。東側から南側にかけては長さ300mにも及ぶ長大な堀切を二重に配し、更に畝状竪堀群を設置して和田川を最外周の外堀にするなど、強固な防御線を構築している。
印象 ダムを渡り登城。始めに急な山道を登る。守護代神保氏の本城で大規模。当初は規模が大きすぎて返って守るのが大変だと思ったが、独立した各曲輪が一つ一つ厳しい切岸に守られており、相応の兵力があれば各曲輪間での連携により堅城であったろう。本当に素晴らしい縄張りで感激した。ここの住人であろう、カモシカ君が迷惑そうにじっと見ていた。
地図
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略史  南北朝期に二宮円阿が増山城の前身の和田城を築城。戦国時代、越中守護畠山氏の守護代の神保氏が歴代この城を拠点として勢力を伸ばした。神保長職が富山城を築城した為、1560年上杉謙信が富山城を攻撃、長職は逃げて増山城に立て籠もったが、謙信の追撃で長職は更に逃散した。その後長職は上杉氏に降伏して配下となり、増山城に拠って一向一揆と対陣するが、神保家の反上杉派が一向一揆と結んで抵抗、城を占拠した為、1576年に上杉謙信によって攻略され、越中は謙信の手に落ちた。しかし謙信の死後、織田軍が侵攻、越中は佐々成政が封じられ、重臣・佐々平左衛門や佐々源六らを入城させた。その後、豊臣秀吉と佐々成政との抗争が勃発し、佐々氏は降伏し転封となり、越中は前田氏支配の時代になった。増山城には中川光重や山崎長鏡が城代となったが、一国一城令により廃城となった。
遠望

遠望

登城坂

F郭



堀切

登る

切岸

馬之背ゴ(E郭)・土塁


竪堀

一の丸手前の小郭

一の丸帯郭

同・切岸

一の丸へ

一の丸


眺望

一の丸から二の丸へ

二の丸土塁

二の丸虎口

二の丸切岸

二の丸虎口

二の丸

同・北東隅の櫓台

同虎口を見る

二の丸

鐘楼堂へ

鐘楼堂

鐘楼堂から二の丸方面


鐘楼堂から安室屋敷方面・大堀切

二の丸・神水鉢

二の丸切岸

二の丸土塁・横堀

無常


横堀

又兵衛清水へ

又兵衛清水

二の丸と安室屋敷間の大堀切

同・鐘楼堂切岸

鐘楼堂切岸

安室屋敷から鐘楼堂・馬洗池

安室屋敷

同の土塁

同下の横堀

同の櫓台

同の切岸

同の土塁

馬洗池

大堀切を振り返る

K郭

三の丸土塁

三の丸


安室屋敷東側の切岸

三の丸横堀

三の丸切岸・横堀

横堀

御所山屋敷付近

御所山屋敷

御所山屋敷横堀

カモシカ君

足軽屋敷へ

足軽屋敷

神保夫人入水井戸

池の平屋敷

小判清水

池の平屋敷方面虎口

城下の土塁