日本の城跡
宮崎城(別称:荒山城・境城・泊城)
略史 1182年、京都を脱出した北陸宮は、木曽義仲に従っていた豪族宮崎長康に庇護されて宮崎に居住し、城山に御所を造営されたのが宮崎城の始りといわれる。しかしその後の京都と鎌倉幕府の対立・承久の変や南北朝期の越中の前守護・井上暁悟と室町幕府との抗争等でも、宮崎の名がたびたび史料にでてくるが、この地に城郭が存在したかは明確ではない。戦国期、越後春日山城主長尾為景(上杉氏)が新川郡守護代になると、松倉城主椎名長常に新川郡を支配させた。しかし椎名康胤の時、上杉氏から武田氏に寝返った為戦闘となり、椎名氏は居城の松倉城を追われ、この宮崎は越中に侵攻する上杉氏の重要な中継拠点となり柿崎景家らが入城、城郭として整備した。その後織田信長の侵攻で佐々成政の支配となり、一度は上杉景勝によって落城するも、佐々氏によって奪還された。しかし豊臣秀吉との富山の役で佐々氏は降伏、越中新川郡のみ安堵されたが、新川郡内の白鳥城には前田利長、宮崎城には上杉景勝の城将が佐々氏に備えるため在城した。関ケ原後、前田氏は砺波・射水・婦負に加え、新川郡も治めるようになり、境関所が設けられ、宮崎城は廃城となった。 |