日本の城跡

宮崎城(別称:荒山城・境城・泊城)


遠望
訪問日 H29年 3月
ポイント 城は越中東北部の越後との国境に近い宮崎の城山に築城。かっては北麓の海岸沿いを北陸街道が通り、難所の親不知子不知が一望できる交通の要衝で、越中の越後口を固める重要拠点である。しかし南北朝期から越中国内の城でありながら、上杉氏の支配する城であり、北陸侵攻を狙った謙信も宮崎城を足掛かりにして越中国を攻略、その後北陸方面の軍事バランスの変化で、佐々氏・前田氏などが当城を領有している。縄張りは山頂に位置する主郭を中心に、西側斜面に二の郭・三の郭を階段状に配置し、主郭の南側尾根に堀切で挟んで南郭を配置し、更に尾根筋を堀切で遮断して防御している。
印象 中型バスが登れず、急遽タクシー登城となった。大戦中、陸軍が軍事使用した為、大分改変していた。特に主郭周辺は酷く、堀切や矢倉台は判断しにくい。また主郭や二の郭の石垣は見栄えは良いが近世のものであろう。かろうじて二の郭下の平場や三の郭の一部に石積みが残っておりほっとした。陸軍用地であった標柱を発見。しかし主郭からの眺望は素晴らしい。特に越後との国境付近を見ると、まさに境目の城で、当地での争奪戦を想像した。
地図
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略史  1182年、京都を脱出した北陸宮は、木曽義仲に従っていた豪族宮崎長康に庇護されて宮崎に居住し、城山に御所を造営されたのが宮崎城の始りといわれる。しかしその後の京都と鎌倉幕府の対立・承久の変や南北朝期の越中の前守護・井上暁悟と室町幕府との抗争等でも、宮崎の名がたびたび史料にでてくるが、この地に城郭が存在したかは明確ではない。戦国期、越後春日山城主長尾為景(上杉氏)が新川郡守護代になると、松倉城主椎名長常に新川郡を支配させた。しかし椎名康胤の時、上杉氏から武田氏に寝返った為戦闘となり、椎名氏は居城の松倉城を追われ、この宮崎は越中に侵攻する上杉氏の重要な中継拠点となり柿崎景家らが入城、城郭として整備した。その後織田信長の侵攻で佐々成政の支配となり、一度は上杉景勝によって落城するも、佐々氏によって奪還された。しかし豊臣秀吉との富山の役で佐々氏は降伏、越中新川郡のみ安堵されたが、新川郡内の白鳥城には前田利長、宮崎城には上杉景勝の城将が佐々氏に備えるため在城した。関ケ原後、前田氏は砺波・射水・婦負に加え、新川郡も治めるようになり、境関所が設けられ、宮崎城は廃城となった。

堀切

駐車場

左櫓台・堀切

急崖

鷲野曲輪・奥に櫓台

アルプス方面

鷲野曲輪から主郭方面

同から泊方面

畝状空堀群跡

主郭に繋がる土橋だが、当時は堀切

主郭周辺

改変された主郭周辺、石垣は近世のもの


主郭下の外郭と櫓台跡

外郭から主郭周辺平場

親不知・子不知方面

主郭

二の郭

三の郭へ

三の郭

三の郭土塁・石積


北陸宮墳墓

二の郭から主郭方面

二の郭石積・陸軍用地標柱

主郭城塁

急崖

腰郭?

空堀跡

竪堀

七曲り(堀切)

宮崎城三の郭方面

上ノ山公園(出丸)