日本の城跡

森寺城(別称:湯山城・井口城・井山城)


搦め手口
訪問日 H29年 3月
ポイント 城は阿尾川の中流左岸、八代谷の中ほどに聳える山上に築城。阿尾城付近を通る、越中と能登を結ぶ古くからの街道に面しており、監視機能を持っていた。。規模は東西400m、南北1200m氷見地方で最大で、頂部の主郭・二の郭を中心に南・北稜線を加工した変則的な連郭式縄張り。各郭も広く、兵の駐屯に必要な大規模な平場を加工しており、更に一部石垣もあることから、境目の城としての重要拠点であった。この城の見どころは、搦め手口は沢を利用した食い違い土塁と堀で厳重に固めている。更にそこからの侵入路に対し、櫓台状の高台から監視でき、側面に曲がる侵入路に対し高台と堀から攻撃を受けるようになっているとこ。
印象 バスが入れないということで、とことこ、だらだらした坂道を、とりあえず45分かけて駐車場まで歩く、疲れた。。しかしそこからは面白かった。搦め手口が食い違いの分厚い土塁、そして堀切でがっちり防御していた、見事!次に主郭方面に向かうと、高台の郭や堀切等が工夫されており、侵入者は痛手を負いそうだ。二の郭は広く、奥に段差のある主郭があるが、所々に石垣の跡も見られ、見ごたえ十分だ。この山は水が豊富らしく、井戸が各郭に確保されていた。帰り道に重臣屋敷跡を回ったが、広い上に空堀、土塁等でそれぞれしっかりと固めていた。地元の人々がこれだけ大規模な山城を整備、また今回同行の上、説明していただき、感謝!
地図
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略史  越中守護畠山尚順が守護代神保慶宗を討つべく、能登守護畠山義聡と兵を挙げた時、義聡が神保氏が籠る二上山城攻略の前線基地として築城したもの。その後能登を追放された温井続宗が畠山晴俊を擁して森寺城を攻略、また能登守護を追われた畠山義続・義綱父子が森寺城を能登奪還の拠点としている。更に上杉謙信の能登侵攻では畠山氏の被官湯山氏が守っていたが、上杉軍の猛攻で落城し(この時能登畠山氏は滅亡)河田主膳が城代となるなど、越中、能登の境目の城として戦乱にまみれた。謙信死後、上杉勢が能登から撤退すると、織田信長が越中に侵攻し、神保氏と連携して森寺城を攻略した。その後、佐々成政が越中を制圧し、能登の前田利家と対峙するに及び、森寺城を氷見の防衛拠点として改修した。その後も前田氏と抗争は続いたが、豊臣秀吉の越中侵攻で佐々氏は降伏した。森寺城は前田氏の領有となったが、加賀・能登・越中を支配する前田家にとっては利用価値が低く、ほどなく廃城となった。

遠望

だらだらと45分歩く

外郭

外郭

駐車場・登城口

寺坂屋敷跡


途中の竪堀


搦め手口

同の分厚い土塁


反対側からの搦め手口

同の堀

同の堀

同の池

同の堀切

平場

主郭部途中の堀切


竪堀

続いてクランクする侵入路

左側の崖

正面櫓台

櫓台下の二重堀切

同の二重堀切

同の二重堀切

同の竪堀

百閒馬場、左は二の郭横の郭の急崖

百閒馬場

二の郭横の郭

二の郭横堀

二の郭

二の郭土塁・石積み


二の郭北虎口

二の郭、前方に主郭

二の郭

二の郭井戸跡

二の郭、左に主郭

二の郭横堀

二の郭横堀

二の郭塁壁

主郭・石垣

主郭石積み

主郭

主郭の奥

主郭から二の郭方面を見る

主郭から南下を見る、土橋がある

二の郭南虎口・石垣

同石垣跡

二の郭下の帯郭

二の郭下の帯郭

帯郭にある竪堀

主郭南下から主郭を見上げる

西方面のサイダ屋敷へ、土橋

主郭下の石積み

平場(荒町)

山街道

山街道両側にある平場(本町・屋敷街)



お花畑

同、上にサイダ屋敷

サイダ屋敷


上段がサイダ屋敷、下段が本町

野崎屋敷虎口

同内の井戸跡

同・前方に土塁

同・段差がある

空堀

藪の中に二重堀切

堀切跡

山街道と横切る竪堀

竪堀

大手口付近の踏段堂


山麓の西念寺