日本の城跡

魚津城(別称:小津城)


城碑
訪問日 H29年 3月
ポイント 魚津は古くから越中東部の新川郡の中心地として栄え、北陸街道が通る交通の要衝。城は南は角川、北は神明川、西は海、東は深田と周囲を水に守られた要害の地にあり、海側に土橋を設けて虎口とした本丸と、これを北・東・南の三方から囲む二の丸で構成され、西側を除いた二重の堀で固めた輪郭式城郭であった。また城の北西部に出丸があったと思われる。このように要害堅固の城郭であったが、織田軍との戦いで何といっても特筆されることは、籠城戦では裏切りの発生で内部から崩壊することが多いが、上杉勢は誇りをもって最後まで結束を固くして戦い抜いたことである。”城は裏切りがなければ簡単には落ちない。”
印象 歴史的な戦いの場となった城も、平城の運命か、小学校用地等になってしまい、今は何も残っていない。残念!大軍の織田勢に対し、平城に籠る少数の上杉勢が耐えられたのは何かを感じ取りたかったが、あまりの変わりようで分からなかった。やはり結束が一番か。もう少し周囲を散策すればよかったのかも。小学校に魚津城に関する展示室がある。
地図
地図をクリックすると拡大します
 
略史  1335年に椎名孫八が築城したと言われている。戦国時代、椎名康胤が上杉氏から離反、上杉氏はただちに越中に侵攻し、松倉城・魚津城らを攻め落とし、椎名氏を追い落とした。上杉氏は越中支配の拠点をそれまでの山奥の松倉城から平野部の魚津城に移し、河田長親を城代とした。しかし織田信長の越中侵攻が始まり、上杉景勝は食い止まるべく魚津城に中条景泰・竹俣慶綱等の上杉諸将を結集した。一方織田勢は柴田勝家・佐々成政・前田利家等率いる大軍で魚津城を包囲した。上杉勢は籠城戦で対抗しつづ、景勝に救援を求めたが、領内の新発田氏の反乱や信濃・甲斐に駐留する織田軍に対する備えから、なかなか援軍を送れる状況ではなかった。しかし信長が甲斐国から安土城に凱旋したとの報を受け、景勝はようやく自ら五千の軍勢を率いて出陣、天神山城に着陣している。織田勢は上杉本隊との決戦を望まず、兵数で劣る上杉勢も打って出ることができず、両軍対峙して膠着状況となった。その後、信濃・上野にいた森長可・滝川一益が春日山城を衝く気配を見せた為、景勝は救援を断念して越後に撤退した。救援もなく兵糧・弾薬も尽きた籠城軍は、中条氏以下城将たちは自刃し落城した。しかしその前日に本能寺の変が勃発、柴田等織田勢は全軍撤退した為、上杉方の須田滿親が魚津城を奪還した。翌年佐々成政が越中平定を目指して魚津城を攻略して、佐々氏領の要となった。豊臣秀吉との抗争に敗れた佐々氏は肥後に移封となり、前田利家が越中を領有し、青山佐渡守親子を城代とした。その後一国一城令で廃城となったが、加賀藩の米蔵・武器庫が城内に置かれ、代官陣屋として機能した。

大町小(魚津城跡)



二代目ときわの松(上杉謙信の歌碑)

二の丸跡の忠魂碑

絵図

古写真

古写真

本丸土塁跡?