日本の城跡
福井城(別称:北庄城)
略史 関が原で勝利した徳川家康は次男の結城秀康を越前の領主とし、苗字を松平氏に戻した。秀康は北庄城の改修に着手、諸大名の手伝い普請を得て天守は後に焼失したが、櫓十基、城門四十三棟をもつ堂々たる城郭に大改修した。次の忠直の時、藩を分割しそうな家老間の派閥抗争が勃発し家康の採決を仰ぎ、更に大阪夏の陣で味方の苦戦を傍観、更にその後の乱行で配流になった。子光長は高田へ移封され、代って高田から忠長の弟忠昌が入封し、地名を福井と改めた。次の光通の時藩政を整備、我国最初の藩札を発行したが福井大火で城下は灰塵とかし、幕府より復興金を借用した。その後も石高の半減や一揆、大飢饉の発生に対し節約を旨とする簡略令の発布や特産の紙、繭玉、鎌等の専売政策を採ったが財政は窮乏。そして疲弊した藩を再建すべく田安家からの養氏慶永が相続した。慶永は人材登用し改革に着手し倹約の奨励、借米、財政整理、殖産興業策を進めた。幕末、尊王攘夷論から、橋本左内ら改革派の意見を取入れ開国貿易論に転換。薩摩、宇和島、土佐藩らと幕政の大改革をめざしたが、一橋慶喜将軍後継争いで井伊直弼に敗れ隠居謹慎となった。戊辰時新政府に恭順し北陸、会津戦争に出陣した。 |