日本の城跡

福井城(別称:北庄城)

本丸・石垣・水堀
訪問日 H14年 6月、H30年 5月
ポイント 関ヶ原後、大阪と加賀を押える要衝の北庄を重要視した徳川家康は、費用の削減にもなる北庄城の改修を決め自ら縄張をした。旧吉野川の河跡を百間堀として利用。その東側に荒川を新しく掘削し、足羽川と共に外郭とした。本丸を中心に、二の丸、三の丸と、円郭式に幾重にも水堀を廻らしている。掘り上げた土砂は低湿地を埋め立て武家屋敷を拡充した。今も残る天守閣脇の井戸「福の井」から福井と名付けたと言われる。
印象 急激な都市化により幾重にも廻らされた水堀、二の丸等は埋められ本丸のみ残っている。しかし高石垣や内堀はすばらしい、家門の風格を感じた。松平家の別邸”養浩館”が復元され楽しめる。再訪。今回は前回見落とした、天守台を中心登城、その石垣がどっしりとして見応え十分。また福井地震で歪んだ石垣やしっかり残った井戸が興味をひいた。何度見ても水堀に影を写す、石垣は美しかった。
地図
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略史  関が原で勝利した徳川家康は次男の結城秀康を越前の領主とし、苗字を松平氏に戻した。秀康は北庄城の改修に着手、諸大名の手伝い普請を得て天守は後に焼失したが、櫓十基、城門四十三棟をもつ堂々たる城郭に大改修した。次の忠直の時、藩を分割しそうな家老間の派閥抗争が勃発し家康の採決を仰ぎ、更に大阪夏の陣で味方の苦戦を傍観、更にその後の乱行で配流になった。子光長は高田へ移封され、代って高田から忠長の弟忠昌が入封し、地名を福井と改めた。次の光通の時藩政を整備、我国最初の藩札を発行したが福井大火で城下は灰塵とかし、幕府より復興金を借用した。その後も石高の半減や一揆、大飢饉の発生に対し節約を旨とする簡略令の発布や特産の紙、繭玉、鎌等の専売政策を採ったが財政は窮乏。そして疲弊した藩を再建すべく田安家からの養氏慶永が相続した。慶永は人材登用し改革に着手し倹約の奨励、借米、財政整理、殖産興業策を進めた。幕末、尊王攘夷論から、橋本左内ら改革派の意見を取入れ開国貿易論に転換。薩摩、宇和島、土佐藩らと幕政の大改革をめざしたが、一橋慶喜将軍後継争いで井伊直弼に敗れ隠居謹慎となった。戊辰時新政府に恭順し北陸、会津戦争に出陣した。

   本丸門
  不明門枡形
  本丸石垣・水堀
    本丸

   本丸石垣

  大手門(瓦御門)

本丸石垣

本丸櫓台
  本丸石垣・堀

      同
以下別邸・養浩館

再訪時撮影分
土橋と北不明御門枡形あと

同・艮櫓台

本丸天守台方面

本丸石垣

天守台



大天守台


同虎口


大天守台礎石


天守台石垣より廊下橋を見る

同上から北西水堀
小天守台

同石垣

天守台にある福の井の碑

同福の井

復元山里口御門



同門脇の石垣

外側からの山里口御門

復元御廊下橋




従前の御廊下橋

本丸石垣・水堀天守台方面

本丸石垣・水堀

堀を埋め立てた西三の丸と御座所屋敷跡の中央公園
御座所屋敷の北部にある神社
天守台方面

北不明御門に架かる土橋

艮櫓台方面