日本の城跡

疋壇城(別称:疋田城)


南丸から本丸櫓台
訪問日 H30年 5月
ポイント 城は越前朝倉氏の近江・越前国境守備を担った。疋田は古くからの交通の要衝で、七里半越、新道野越、深坂越、刀根越等近江から越前に向かう複数の道が集合する場所で、軍事上も重要であった為、古代には三関の一つ愛発関があった。縄張りは近くに築かれた玄蕃尾城と曲輪の配置が良く似ており、本丸を中心に南北に曲輪を配置している。本丸は四周を石垣で囲み、深い空堀が廻っている。南西隅に一番高所の櫓台、2m下がって北・西・南を囲んだ中段、更に1m下がった広い下段があり、各段すべて石垣で固めている。残っている石垣や堀の土止めの石積等、朝倉氏の技法と異なり、柴田勝家が対秀吉用に改修したものと思われる。
印象 北曲輪の一部であった日吉神社の脇から上がっていくと、右側に空堀と石垣が見えてきた。今はゲートボール場(旧西愛発小)になった南曲輪に駐車。、1/3ほどが改変されたらしい。すぐに本丸へ上がってみると、三段の階段状になっており、ほとんどが畑地だ。一番高い櫓台跡に城碑があった。本丸の周辺は石垣と空堀で守られているが、堀は深く、石垣もしっかり積み上がっていた。北陸本線が城内を通っており、特急が4本通過していった。城下の疋田の集落は往時は交易路として知られ、今は小川になった舟川を、敦賀と物資を運搬する舟が往来していたらしい。現在も川に沿って両側に住宅が立ち並んでいた。要衝であった疋田集落と疋壇城、面白かった。
地図
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略史  城は戦国初期の文明年間(1469年頃)、朝倉氏の将、疋壇久保によって築城された。疋壇氏はその後七代100年余にわたり、当地を治めた。戦国末期、織田信長の越前侵攻で、手筒山城・金ヶ崎城と共に落城した。信長軍の撤退後、一旦修復され、朝倉氏の武将栂野景仍らが入城した。しかし信長の再度の侵攻で、疋壇城は再度攻落され、更に朝倉軍は利根坂の戦いで大敗を喫した。城主疋壇三郎は討死し、城は破却された。ただ、信長死後の清洲会議で長浜城を手に入れた柴田勝家が、玄蕃尾城と北庄城のほぼ中間地点に位置し、交通の要衝の地にある疋壇城を対秀吉用に改修、活用したと考えられる。

疋田集落からの遠望

城碑

本丸東側空堀

本丸虎口

本丸

本丸内部より虎口

東側空堀

本丸下段

帯曲輪

北曲輪方面

帯曲輪

周囲の山並み

中段の石垣

北側の空堀跡


本丸櫓台方面

右中段、左下段

中段

中段と上段

下段

上段石垣

西側空堀


中段

上段登り口

上段

同・城碑

上段から中段・下段

上段から南曲輪方面

帯曲輪

西側空堀

櫓台石垣

櫓台登り口

本丸櫓台、手前は南側から堀跡

南曲輪

本丸方面

西側空堀

西側曲輪

線路越の遠望

北陸線特急


本丸西側空堀・石垣


北側空堀跡

南曲輪南下の曲輪

旧西愛発小碑

南曲輪東下の曲輪

南曲輪

同の曲輪

東側空堀越の本丸土塁

本丸東側の曲輪(日吉神社方面)


本丸東側石垣土塁

東側空堀

同空堀・石垣


日吉神社(北曲輪)参道

疋田集落・舟川


船着き場跡


南無阿弥陀仏