日本の城跡

一乗谷朝倉館

朝倉氏館・向唐門
訪問日 H14年 6月、H29年11月
ポイント 一乗山から発し足羽川に合流する支流一乗谷川が作った一乗谷にある。東側は越前山地が続き、西側は低い丘陵を隔てて広大な越前平野が展開し、北方のみが開口した谷。狭小な谷間に領主館と全国に先駆けた城下町を配置し、北に成願寺城、南に三峰城、東に一乗谷城、西に東郷槇山城を配した。応仁の乱で荒廃した京都から公家・名僧等文化人が多く下向し朝倉文化が開花し、北陸の小京都と謳われた。この公家文化や女性に囲まれた環境から義景は闘争に燃える戦国大名に脱皮出来なかった。山頂にある詰の城、一乗城は朝倉氏滅亡時戦わずして廃城になった。又一乗谷は朝倉氏が再起の頼りにしていた、平泉寺衆徒によって火をかけられ、谷中が焼き尽くされた。
印象 久しく荒廃していたが復元され、興味深く探訪した。思ったより狭い谷に流れる一乗谷川の両側に城下は拡がっている。詰の城は山の上にあり、その山麓に館群と集落があり、城下は計画的に区画配置されていた。朝倉氏の本館は谷の中央にあり、三方を塁濠が囲んでいる。主殿の周りに茶室・湯殿等の建物があり、その礎石群が整然と残っている。その他諏訪館・南陽寺の庭園跡、復元武家屋敷・町屋があり朝倉氏の栄華を思いつつ楽しめた。再訪。今回はゆっくり回れた。館形式であるが、深い堀、天然の水堀(一乗谷川)、高い土塁、竪堀等を備えた立派な平城である。今回登城した詰の城も含めるとかなりの堅城であったが、簡単に落城してしまった。やはり家臣が朝倉氏を見限ったことがすべて。そんなに簡単に落ちる城ではない。
地図
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略史  朝倉氏は但馬国の豪族で南北朝の争乱の時、広景、高景父子が北朝方の斯波高経に従って越前に来た。一条家の荘園、足羽北庄の代官職を得て黒丸城を居城に南朝方を撃破し勢力を拡大した。その後応仁の乱が起きると各地での戦いに勝利して、終には守護代の甲斐氏や主家の斯波氏も追放して越前一国を支配し、一乗谷に移った。四代孝景の時絶頂期を向かえたが権力は強固でなく、次の義景も度々の一族間での抗争や加賀一向一揆に悩まされた。こうして対外進出が遅れた間に織田信長の伸長はすさまじく、更に義景を取り巻く小京都と言われた環境から守護大名から戦国大名への脱皮が出来ず、浅井氏との連携もむなしく敗れ去り滅亡した。

  一乗谷入口

    下城戸

     同


   土塁・堀
義景御殿内からの向唐門
   南門・土塁

   義景御殿跡

  朝倉義景墓所

   湯殿庭園
   中ノ御殿

城下町

復元町屋
  復元武家屋敷
     同

以下は再訪時撮影分
安養寺跡と足利義昭の御所跡
     同
     同
     同
     同

上城戸



一乗谷川(堀)

諏訪館土塁

諏訪館跡庭園



屋敷跡
朝倉孝景墓所

屋敷跡

空堀

屋敷跡
中の御殿跡


同土塁

中の御殿と義景御殿間の竪堀



朝倉義景墓所

義景御殿



同・中門

同向唐門

水堀

水堀
義景御殿隅櫓台 屋敷通路

一乗谷川・右側に柳の馬場跡

復元武家屋敷




下城戸