日本の城跡

鯖江陣屋


陣屋跡の尾形稲荷神社
訪問日 H30年 5月
ポイント 陣屋は福井平野の中央部、長泉寺山南東麓に造られた。陣屋は、北陸道の西側、現在の屋形町周辺に構えた。そして町並み整備と共に、藩庁、御殿、家臣の屋敷が軒を連ねていた。お屋敷は北陸道の東側、それに北側の西山の麓に置かれた。しかし市街地に吸収され、遺構はなく、移築された陣屋門や家臣の長屋門が残るのみである。
印象 当時は比高30mの台地上にあり、三方は急崖で、北のみ丘陵に連なっていたとのことだが、現在は市街地開発で、陣屋の痕跡を残すものは見つからなかった。残念!
地図
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略史  間部詮房は徳川綱豊(6代将軍家宣)の寵愛を受け、出世し高崎、村上藩主となる。没後、弟の詮言が相続し越前に転封、立藩した。しかし入部時、南北は福井藩、東は小浜藩、西は幕府直轄領というように、四方は他藩領に囲まれた狭小な地で、左遷であった。その後小浜藩領東鯖江と当藩の飛地が交換され、ようやく旧鯖江代官所跡の居館を構え、2代藩主詮方の時、整備拡張した。しかしその後の飢饉等で財政は困窮した7代藩主詮勝は深い教養を持ち、産物問屋を設けて市を立てたり、産物会所を設置、また藩札を発行するなど財政再建を図った。そして幕閣にに累進、老中になった時にようやく築城を許されたが、天保の大飢饉や藩財政等から実現しなかった。また井伊直弼の片腕として、諸外国との条約締結、安政の大獄を推進したが、直弼と対立し蟄居となった。維新時、新政府軍に恭順し、戊辰戦争に参戦した。

尾形稲荷神社


鯖江陣屋碑


移築門