日本の城跡

称念寺(院号:往生院)


山門
訪問日 H29年11月
ポイント 当寺境内に、義貞墓所があり、近世には江戸幕府・福井藩から保護を受けている。明智光秀は美濃の斎藤義龍に敗れ、一族と共に、母の縁があった西福庵の本寺・称念寺に逃れてきた。光秀は住職と和歌を詠み、漢詩を作ったりするとともに、全国を布教する坊さんから天下の情報を得ていた。その後光秀は称念寺住職の口添えで、一乗谷の朝倉家に仕えている。
印象 結構な歴史を持つ寺だが、観光寺院ではないせいか、静かな境内だ。しかし山門の雰囲気がすばらしく、ゆっくりと拝観した。
地図
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略史  .721年、泰澄によって開かれたという。1290年、他阿真教によって時宗に改められた。1338年、新田義貞が燈明寺畷の戦いで戦死すると、時衆によって往生院(当寺)に運ばれた。室町時代には、後花園天皇や八代将軍足利義満の祈願所となり、そのほかの武将の帰依を得ている。明治時代に入り、福井藩が廃藩になり、庇護者を失い衰退したが、大正末期に再興した。

義貞公廟所


本堂