日本の城跡
吉崎御坊
略史 1471年、比叡山延暦寺などの迫害を受けて、京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸の布教拠点として、越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂きに建立した。吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若いころ、経覚のもとで修業していたこと、偶々吉崎の代官の地位にあったのが、当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本願寺の住持蓮光であったという関係もあって、経覚が蓮如に吉崎を譲ったと言われている。この地で蓮如は民衆に分かりやすく教義を説き、時に御文を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字各号を下付したため、御坊には北陸はもちろん、奥羽からも多くの門徒が集まり、吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊が立ち並び寺内町を形成した。しかし戦国の動乱で焼失、1475年に蓮如は吉崎を退去した。蓮如はその後京都山科に山科本願寺、大阪に石山本願寺を建立した。一方吉崎は朝倉氏が加賀より越前に侵攻した、加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けたのち、吉崎御坊を破却し、廃坊となった。江戸時代になり、西別院、東別院が吉崎山の麓に造営されて再興された。 |