日本の城跡

吉崎御坊


太鼓楼
訪問日 H30年 5月
ポイント 北潟に突出した海抜33mの御山に置かれ、御山の奥に坊舎を構え、周囲を土塁をめぐらしていた、吉崎の地は一向宗勢力の増大に伴い、寺内町一帯が要害化したが、後の山科本願寺、石山本願寺の造営の原型も、この吉崎寺内町にみられるところであり、その歴史的意義は大きい。
印象 もっと信徒で賑わっているのかと思ったが、しまっている店も多く、寂しかった。港近くの小山に御坊を置き本拠とした。周囲は結構険しい崖だ。御坊の周辺に寺を配置し、戦ったのであろう。また、海の出入り口でもあり、色々な情報や物資が入る要害の地だ。御坊からの眺望が良い。
地図
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略史  1471年、比叡山延暦寺などの迫害を受けて、京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸の布教拠点として、越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂きに建立した。吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若いころ、経覚のもとで修業していたこと、偶々吉崎の代官の地位にあったのが、当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本願寺の住持蓮光であったという関係もあって、経覚が蓮如に吉崎を譲ったと言われている。この地で蓮如は民衆に分かりやすく教義を説き、時に御文を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字各号を下付したため、御坊には北陸はもちろん、奥羽からも多くの門徒が集まり、吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊が立ち並び寺内町を形成した。しかし戦国の動乱で焼失、1475年に蓮如は吉崎を退去した。蓮如はその後京都山科に山科本願寺、大阪に石山本願寺を建立した。一方吉崎は朝倉氏が加賀より越前に侵攻した、加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けたのち、吉崎御坊を破却し、廃坊となった。江戸時代になり、西別院、東別院が吉崎山の麓に造営されて再興された。

港からの遠望

西別院

西別院東門

東別院正門

御坊内


蓮如上人像

本堂碑


蓮如上人御手植えのお花松

腰かけ石

見玉尼の墓

周囲の急崖

御坊跡からの眺望

港からの眺望