日本の城跡

高原諏訪城


北側尾根の二重堀切
訪問日 H29年 4月
ポイント 江馬氏の城は居館である下館と本城の高原諏訪城、そして神岡町の四方を固める土城・寺林城・政元城・洞城・石神城の支城群で構成されている。高原諏訪城は下館背後の山稜上に築かれ、南端の東、南、西を川と急峻な崖に囲まれた尾根を加工し、土塁・曲輪・堀切・竪堀で固めている。そして江馬氏築城技術の特徴である、通路や曲輪の外縁に柵列が乗っていたろう、低い土塁が見られる。また、最大の見どころは多くの堀切とそれに繋がる竪堀である。枡形などの大規模な土塁による防御施設はなく、もっぱら堀切に頼っているところから、戦国時代初期以前の築城であろう。
印象 途中までバスで登ったので助かった。堀切を道路で削った所から入ると、まず二重の堀切に圧倒された。急峻な岩山の上に、杉・檜が植えられている為、枯葉等の堆積が少ないく、途中に木が根ごと倒れていた。尾根の外縁に、柵列があった土塁が残っている。主郭・曲輪に目立った土塁はなく、規模も小さい。多数の兵の長期間の駐屯は難しい。堀切と竪堀で防御した中世の典型的な山城だ。堀切が見応え十分。
地図
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略史  高原諏訪城は北飛騨を支配した江馬氏が、代々本城としていた。居館としていた山麓の江馬下館の詰城として築城された。江馬氏は室町から戦国時代にかけて、北飛騨を治めていた有力在地豪族で、平家の一族とも、鎌倉幕府執権北条氏の一族とも言われているが、その出目は明らかではない。戦国期には飛騨の覇権をめぐり、姉小路氏、三木氏らと争い、1582年、時の当主江馬輝盛が南飛騨を治める姉小路(三木)自綱に敗れ、力を失った。しかし2年後、傍系の江馬時政が中心となって再興し、当城を居城として勢力を広げていった。その後時政は飛騨に進攻し、三木氏を滅ぼした金森長近に協力するが、賞罰不公平に不満を抱いて一揆を起こした。そのため時政は長近に滅ぼされ、高原諏訪城も廃城となった。

下館と詰の当城

道路で削られた堀切

堀切からの竪堀

同じく反対側の竪堀

二重堀切


下から見る

同にある石仏


同の二重堀切



左側急崖

右側急崖

尾根にある土塁


堀切

竪堀へ

次の竪堀


段郭

曲輪

主郭へ

主郭の帯曲輪


下の曲輪

主郭へ上る

主郭


主郭から下の曲輪


神岡町

江馬下館を見る

曲輪

南の曲輪との堀切


下の曲輪

帰り道

主郭周辺の急崖

旧飛騨温泉駅の軌道自転車


対岸の高原諏訪城