日本の城跡

伊賀上野城(別称:白鳳城)

高石垣
訪問日 S62年 9月、R元年11月
ポイント 伊賀上野は京都・奈良から東海道へ通じる交通の要衝で、大阪から伊勢湾に向かう最短コースに当たる。徳川氏にとって豊臣打倒の最重要基地である。その為大阪に向かって徹底的に堅固に構築している。万一大阪城攻撃に失敗した場合、家康は上野城に、秀忠は彦根城に入城し対抗する計画であった。城は四方を山並みが囲んだ盆地に突き出た台地の端にあり、北・南・西の三方を川が流れ、城下を大きく取り巻いている。伊賀は奈良・京都に近い為、貴族・社寺の荘園が多くの土地を占め、土豪がひしめき遭い有力守護大名が出なかった。織田信長の侵攻で土豪は壊滅し潜んだが、高虎はこれら伊賀忍者はじめ在地勢力を温存、利用した。無足人制度も一つで、俸禄はないが武器・帯刀・減免を許され、いざという時は武力集団、一種の郷士であり、農民支配でも有効であった。松尾芭蕉も無足人出身といわれる。
印象 上野城は筒井城跡のうえに藤堂城が造られたもので、何といっても日本一という高石垣が見ものだ。そして小作りだが、木造で再建された天守が、威風堂々と上野盆地に睨みをきかせている。折しも弓道と剣道大会が行われており、若者の喚声が城内に響いていた。その他荒木又右エ門の仇討ち”鍵屋の辻”、忍者出身?俳人松尾芭蕉の生家、移築された忍者屋敷、武家屋敷、特産品の伊賀焼・組紐など見所が多い。久しぶりの再訪。今回は前回流してしまった筒井氏時代の城郭を重点に見た。高石垣・本丸・天守台等々に満足!高虎時代の高石垣・水堀は何度見ても見応え十分だ。また上野高校明治校舎が大切に保存され、感謝!
地図
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略史  伊勢国司北畠信雄は父の織田信長の支援の下伊賀を平定し、家臣の滝川雄利を伊賀守護とし、前の守護仁木氏の館を修築させて支配させた。秀吉の時代に脇坂氏、続いて筒井氏が移封され、筒井氏は平楽寺跡に新城を築城した。関が原後徳川家康は、筒井氏の本領を安堵したが豊臣秀頼に通じていたこと、家臣間の抗争が表面化した為筒井氏は死を命じられ断絶した。そして軍事上の重要地点である上野に信任厚い藤堂高虎を置き、高石垣を築く等大改修させた。しかし大阪の陣で家康が勝利し大阪方に備える役目も終った為、上野城の存在価値も薄れ、暴風での損壊も再建せず津城を本城とし、上野は支城とし一族が城代を務めた。

    遠望

城碑

    復興天守
    仏塔

   復興天守

      同
高石垣

    復興小天守

復興天守
    高石垣
      同
上野高校明治校舎 
   
    城下町
  
鍵屋の辻
 
同仇討ち碑 

以下再訪分     藩校・崇廣堂

高石垣・内堀







伊予丸跡

俳聖殿への門

俳聖殿(松尾芭蕉生誕300年記念)

北谷

空堀

本丸へ

筒井氏時代の本丸石垣



藤堂氏城代屋敷図

同屋敷跡



筒井氏の天守台跡

城代屋敷から天守


城代屋敷枡形虎口


同を下から

城代屋敷虎口

城代屋敷高石垣

忍者に扮した観光客

復興木造天守

城代屋敷方面を見る

復興木造天守

栗石

同と松の古木

高石垣から

左は上野高校グランド(旧御屋敷)

上野高校方面

高石垣上の石

土塁

土塁


石碑

大手門石垣

大手門

石垣

土塁
白鳳門(模擬櫓門)

馬場脇の侍屋敷跡

藤堂新七郎屋敷跡

西嶋八兵衛屋敷跡

旧家

菅原神社


高原稲荷神社

寺町通り

上行寺


藤堂家の墓

高虎の供養塔

忍者市駅越の天守