日本の城跡

百地丹波城(別称:百地砦)


主郭
訪問日 R元年11月
ポイント 城郭は丘陵の尾根を削平した郭を連ねた配置。最も山寄りの郭から館跡の青雲寺まで含めると、長さ150m、幅最大60mで、周辺中世城館跡でも有数の規模である。4つの郭が段々に形成され、その中でも郭Cは最も大きく、四方を高い土塁を築き、南に堀、東に堀切で固めている。また周囲に腰郭を設けたり、進入路を屈曲させるなど防御に工夫がみられる等から主郭と思われる。主郭の東側の土塁は最も高く、土塁の上が広くなっていることから、見張り台があったようだ。また主郭内を区画したと思われる、巾1m程の溝が残っている。(現地案内板より)
印象 いよいよ伊賀忍者の城館ということで、胸ときめかせ登城したが、結果的には地方の土豪の城といったところで、忍者屋敷を著しく感じさせるところが無かった。忍者が修業したと言われる丸形池は少し・・・。ただ主郭の土塁は一部改変されているが、高さ・厚さとも迫るものがあった。ただ、主郭の堅固な守りに比べ、他の郭は土塁・堀等があまり残っていない点が気になった。全体としては郭・土塁・虎口・堀切等遺構は残っており楽しめた。
地図
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略史  名張中村の出で、伊賀一帯を仕切る土豪であったが、他面では伊賀流の忍者の上忍で、伊賀忍者を統括する3人組(百地・服部・藤林)の一人であり、伊賀惣国一揆の指導者。1579年の織田信雄の伊賀攻め、布引鬼瘤口の戦いでは信雄を撃退。しかし2年後、織田信長は大軍を率いて伊賀に侵攻、百地ら伊賀一党は南伊賀の拠点・柏原城に籠って抵抗したが、衆寡敵せずに一族と共に戦死した(天正伊賀の乱)。生き残った伊賀忍者は各地に散らばり、一部は根来忍者に合流したとも言われる。

遠望

久米川

永保寺、裏山が城跡



伊賀四国八十八ヶ所の石仏群



左空堀、右丸形池

主郭下の空堀

館跡(二の丸)の青雲寺

前に忍者が修行したと言われる丸形池

正面に主郭の切岸

主郭の腰郭を行く
  主郭(縄張り図では郭C)南虎口

主郭西郭(溝で区画)
主郭北側高土塁


同西土塁

土塁から青雲寺

主郭南側の土塁跡

主郭東郭高土塁



同北虎口

同東北の虎口

主郭東側の堀切

同堀切からの東北の虎口

同堀切の南方面

堀切を北方面に

主郭切岸

右が縄張り図で郭B

郭C

郭Cから堀切を見る

郭C

郭Cの北東端の道

郭Cの先端(かなり崩れている)


同食い違い虎口跡



堀跡なのか?

同?

城塁

堀切から竪堀に

堀切?

周辺の風景