日本の城跡
名張陣屋
略史 この地はもともとは土豪の砦になっていたが、天正十三年(1583)に筒井定次が筒井家三代に仕えた家臣松倉勝重に与え、勝重は狭間の高台に名張城を築いた。勝重死後、嫡男重政が相続したが、筒井定次への諫言が聞き入れられないことを理由に主従の縁を切り、興福寺へ入ってしまった。重政は後に豊臣秀吉、次いで徳川家康に仕え、関ヶ原・大阪の陣での軍功で島原城主に立身したが、子の勝家の暴政により島原の乱が勃発している。重政の後の名張城は家臣を城代としていたが、筒井定次改易により伊予今治から藤堂高虎が入国し、家臣の梅原武政を置いた後、一国一城令で廃城となり、以後名張は高虎の異母弟の上野城代出雲高清が支配した。寛永十二年(1635)、藤堂藩の今治領を支配していた藤堂高吉は伊勢飯野・多気両郡内との替地の沙汰を受け新領地に入国したが、高虎の後継、高次が伊勢の領地の一部を名張郡と替地してしまった。こうして高吉は名張に陣屋を構築し、名張藤堂家がスタートした。高吉は丹羽長政と織田信長の姪を父母とし、4歳の時秀吉によって羽柴秀長の養子になったが、藤堂高虎が秀吉に取り入って養子に迎えられた。高吉は関ヶ原の役で軍功挙げ、加増を受け二万石の所領となったが、この二万石は高虎の伊予領国二十二万石に入っていた。その後高虎に実子高次が生まれた為、養子高吉への気持が変化していった。名張藤堂家は大名とされず、津藤堂藩の藩内領主とされており、享保十九年(1734)、五代目長煕が独立の大名に昇格を果たす為の江戸幕閣への働きかけが津藤堂家に発覚した。主家の厳しい追及により、家老らの切腹、長煕の隠居で落着したが、以降主家の厳しい監視により、最後まで大名としての家名は立てられなかった。 |