日本の城跡

名張陣屋

陣屋門
訪問日 H22年 5月
ポイント 陣屋は名張の街の中央部丘陵地にあり、名張城跡に殿館を築いた。高吉は今治城下に似せて、今治から連れてきた家臣・商人・職人を館の周辺に住まわせた。敵の攻撃を防ぐため、鍵形に屈折した町筋にしている。館は宝永の大火の後再建され、表書院などがある表向・当主の居間などがある表住居向・夫人の居間などがある奥住居向・釜屋などがある大台所向に分かれ、それぞれを廊下でつないだ屋敷が並んでいた。他に武芸場・能舞台などもあり総畳数が千八百三畳に及び、広さは約350m四方もあり、周囲に堀と竹藪を巡らせていた。現在の屋敷は大奥の部分で全体の二十分の一にすぎないが茶室・枯山水の庭園は見事である。近世上級武士の住まいの一例として貴重な遺構である。
印象 名張藤堂家の屋敷の一部が残っている。広大な屋敷も明治に失った。茶畑であったがその後大半が学校敷地になっている。しかし現存する屋敷は殿さまの住まいらしき格式と風格を持っている。廊下に座って雨で濡れる枯山水の庭園をしばしのんびり眺めた。どうどうたる移築太鼓門が隣の寿栄神社に残っている。
地図
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略史  この地はもともとは土豪の砦になっていたが、天正十三年(1583)に筒井定次が筒井家三代に仕えた家臣松倉勝重に与え、勝重は狭間の高台に名張城を築いた。勝重死後、嫡男重政が相続したが、筒井定次への諫言が聞き入れられないことを理由に主従の縁を切り、興福寺へ入ってしまった。重政は後に豊臣秀吉、次いで徳川家康に仕え、関ヶ原・大阪の陣での軍功で島原城主に立身したが、子の勝家の暴政により島原の乱が勃発している。重政の後の名張城は家臣を城代としていたが、筒井定次改易により伊予今治から藤堂高虎が入国し、家臣の梅原武政を置いた後、一国一城令で廃城となり、以後名張は高虎の異母弟の上野城代出雲高清が支配した。寛永十二年(1635)、藤堂藩の今治領を支配していた藤堂高吉は伊勢飯野・多気両郡内との替地の沙汰を受け新領地に入国したが、高虎の後継、高次が伊勢の領地の一部を名張郡と替地してしまった。こうして高吉は名張に陣屋を構築し、名張藤堂家がスタートした。高吉は丹羽長政と織田信長の姪を父母とし、4歳の時秀吉によって羽柴秀長の養子になったが、藤堂高虎が秀吉に取り入って養子に迎えられた。高吉は関ヶ原の役で軍功挙げ、加増を受け二万石の所領となったが、この二万石は高虎の伊予領国二十二万石に入っていた。その後高虎に実子高次が生まれた為、養子高吉への気持が変化していった。名張藤堂家は大名とされず、津藤堂藩の藩内領主とされており、享保十九年(1734)、五代目長煕が独立の大名に昇格を果たす為の江戸幕閣への働きかけが津藤堂家に発覚した。主家の厳しい追及により、家老らの切腹、長煕の隠居で落着したが、以降主家の厳しい監視により、最後まで大名としての家名は立てられなかった。
館入口 枯山水庭園
裏庭園・井戸
陣屋門内側
土塀・蔵 陣屋裏門 移築太鼓門 寿栄神社 小学校
土塁 縄張り