日本の城跡

滝川氏城(別称:小波田城)

遠望
訪問日 H22年 5月
ポイント 当城は美旗古墳群の東南の丘頂部にある。本丸は70m四方で、高い土塁と深い空堀を廻らした伊賀特有の単郭式城郭で、単郭式としては県下最大の規模である。更に南西側は堀を挟んで二重の土塁としている。虎口は二つあるが、南東側の虎口の前には半月形の馬出状の小曲輪が配されている。
印象 大きな単郭の城だ。今はグランドに使われている。高さ5mほどの土塁が周囲を取り囲んでいる。雑草に覆われているが、空堀が廻らされているのが分かり、特に南西側には堀を挟んで二重の土塁が。虎口の前面に馬出的な曲輪もあったが、かなり改変されていた。そこに地主さんが竹の子を伐採していた。シーズンは終わったが、いまだに人が入ってくるので取ってしまっているとのこと。自分も疑われたかな?
地図
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略史  滝川三郎兵衛は滝川一益の娘婿で、畠山(織田)信雄に仕えた。三郎兵衛は信雄の伊賀統一の足がかりとして、丸山城を築城したが伊賀土豪の攻撃を受けて信雄の下に逃げ帰った。しかし織田信長は本格的に伊賀侵攻を企画し、織田勢が大軍で来攻した。三郎兵衛は副将として名張の土豪が立て篭もる柏原城を攻めたが、長期戦となった為信雄の本隊を下小波田に戻し、短期間に当城と隣接する桜町中将城と共に築いた。乱後、三郎兵衛は伊賀守護になり丸山城に入り、南伊賀を支配する拠点として当城を完成し家臣を置いた。
主郭 同土塁 虎口 出丸周辺
空堀
出丸周辺
 城の前の貴人塚古墳