日本の城跡

亀山城(別称:粉蝶城)

天守台・多聞櫓
訪問日 S62年 9月、H22年 2月
ポイント 東海道五十三次の宿駅のひとつで、伊勢と近江の国の通路を押さえる要衝。その為歴代の権力者は重臣を配置した為、結果城主が頻繁に替わっている。三宅康盛が城主の時、幕府は堀尾吉晴に丹波亀山城の修築を命じた。堀尾氏は伊勢亀山城と勘違いして亀山城の天守閣を解体、幕府はその後再建を許さなかった。
印象 旧天守台に本多俊次が建てた県下唯一の城郭建造物である多聞櫓がある。その他高石垣・堀跡である池・武家屋敷等残っている。又赤穂浪士の仇討ちに大きな影響を与えたと言われる、石井兄弟の父・兄の仇討ちの遺跡跡がある等雰囲気のある城下町だ。H22年2月再訪。前回は多聞櫓周辺のみだったので、じっくりと思ったが雪の影響でまたまた駆け足。現在、二の丸周辺の帯曲輪・埋門・土塀・水堀等を復元中。全体を見ると平山城のなかなかの堅城だ、これから更に楽しみ。更に家老屋敷門、二の丸御書院式台や、城下町特有のカギ型道路等が残り、楽しめた。
地図
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略史  平重盛の曾孫実忠は鎌倉幕府に仕え、北勢の乱の鎮圧に軍功たて関谷の地頭職を得、関に館を構え関氏と称した。関氏は鎌倉に出仕していたが新田氏に幕府が滅ぼされた為亀山に戻り城を修築した。南北朝期には北畠氏に味方し行動した。関氏は長男盛澄に神戸城を築いて神戸氏を、次男盛門に国府城を築いて国府氏を、三男盛繁は関宗家を継いで亀山城に、四男盛宗に鹿伏兎城を築いて鹿伏兎氏を、五男政実に川崎峯城を築いて峯氏を名乗らせた。その後佐々木六角の重臣、蒲生氏との縁組、織田信長の三男信孝との養子縁組で強豪の侵攻から関家を守った。しかし一向一揆に荷担した為蒲生氏に幽閉され、許された後は長男一政に蒲生氏の娘を娶り後継とした。豊臣秀吉の小田原征討で蒲生氏は会津に栄進、一政も白河に移った為亀山城は岡本宗憲が入城した。岡本氏は亀山城が狭く腐朽も激しい為、隣接の地に三層の天守を持つ新城を築城した。しかし関が原で西軍に与して自害、関一政が旧領に復し立藩した。その後転封、家門の松平忠明が入封するも大阪へ、幕領後譜代の三宅・本多・石川・板倉・大給松平氏、そして板倉・石川氏が再封して定着した。総純の時甲斐の川普請助役の為農民に御用金を課し、更に御用商人の画策による検地、米の買占めに反対する全藩あげての一揆が発生した。幕末、勤王・佐幕の激しい対立をまとめ勤王に。
城碑
   
石井兄弟仇討の碑・石坂門跡
同下の外堀
天守台・多聞櫓 同石垣 本丸楠門跡 本丸・亀山神社
同・三重櫓台 同・西門跡 多聞櫓より二の丸 二の丸土塁・埋門方面 二の丸より本丸多聞櫓方面
二の丸北築山跡 二の丸北埋門 二の丸帯曲輪
古城跡方面
本丸北の水堀(改修中)
同から本丸三重櫓台方面
西の丸の青木門跡
 
道標(東海道)
加藤家長屋門
二の丸書院式台
上四段はH22年2月撮影