日本の城跡

神戸城(別称:本多城)

本丸・天守台
訪問日 H22年 2月
ポイント 北伊勢の中央平野部、鈴鹿市の中心部に位置する。小丘を利用した平山城で、周囲は湿田に囲まれ、更に広い水堀で固めた。本丸を中心に、二の丸、三の丸、西曲輪、南曲輪を梯郭式に配置。織田信孝時代の縄張りとほぼ同じで、東西500m、南北300mの規模を持ち、1万5千石の本多氏には”過ぎたる城”と言われた。本多氏時代には5層6階の天守は無いが、丸みを帯びた川石を多用した特徴をもち、墓石や五輪塔も転用した野面積みの天守台が残っている。本多氏時代には、北東隅の二重櫓が象徴的存在であった。神戸利盛は城下に伊勢参宮街道を通し、更に信孝が楽市と伝馬の制をひらいた為神戸は宿場町としても栄えた。
印象 朝雪が降り、新幹線が遅れる。この為名古屋からの関西線の連絡が出来ず苦労す。なんとか鈴鹿駅にたどりつき、時間なくタクシーで回る。二の丸・三の丸周辺は鈴鹿高校が立っているが、裏手に本丸が城跡公園として残っている。川原石を多用した野面積みのずっしりとした天守台と、手直ししているが水堀・土塁等が印象深い。周囲には水田も残り、当時の姿が浮ぶ。市民の憩いの場所としていつまでも残って欲しい。太鼓櫓が市内の蓮花寺に、大手門が四日市市の顕正寺に残っている。
地図
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略史  南北朝期、亀山城主関盛政の長男盛澄は領地を与えられ、神戸に沢城を築いて神戸氏を称した。200年ほど後に神戸利盛は城を神戸に移し、二つの支城、岸岡城と高岡城を築いた。この時代に一時近江の六角氏が、同盟を結んでいた柿城の佐脇氏を攻めたため救援に行った留守に岸岡城主佐藤氏の内応により神戸城を奪われた。しかし佐藤氏の家臣が利盛に寝返って岸岡城に利盛を迎えた為、利盛は長野城主工藤氏の応援を得て神戸城を取り戻した。その後六角氏は関氏に娘を嫁がせて友好関係を結んだ。北伊勢に侵攻した織田信長は滝川一益に神戸友盛氏を攻撃させたが、支城の高岡城主山路弾正が良く守り織田軍はいったん兵をひいた。翌年信長の三男信孝を友盛の養子にすることで和睦、友盛は沢城に隠居した。その後信孝に対する神戸氏旧臣の反抗もあったが押さえつけに成功、信孝は天守閣はじめ城および城下町の整備・拡充を実行した。本能寺の変で信長が斃れた後、信孝と兄信雄・羽柴秀吉間で争いが生じ、信孝は自害して果てた。神戸城には小島・林・生駒氏、そして滝川雄利が入城、このとき天守閣は桑名城へ移された。関が原後、一柳直盛が入封したが、のちに伊予に移り、天領となり城は破却された。その後石川総長が再立藩、居所を構え善政を敷いたが、のち下館に転封。本多忠統が入封した。忠統は将軍綱吉の小姓から若年寄に昇進、更に御勝手御用掛として財政難打開に努めた。また念願の城郭改築が許された。荻生徂徠の高弟かつ茶人として表千家の流れをくむ。この文人大名としての好尚は代々の藩主に受け継がれた。
 遠望・手前は水田 縄張り  本丸土塁 本丸虎口土塁
天守台
 天守付櫓台 内堀  本丸虎口
内堀
神戸公園・武家屋敷跡
西大手土塁
二の丸・神戸高校
同・旧制中学門
常夜塔
移築太鼓櫓
移築大手門