日本の城跡
神戸城(別称:本多城)
略史 南北朝期、亀山城主関盛政の長男盛澄は領地を与えられ、神戸に沢城を築いて神戸氏を称した。200年ほど後に神戸利盛は城を神戸に移し、二つの支城、岸岡城と高岡城を築いた。この時代に一時近江の六角氏が、同盟を結んでいた柿城の佐脇氏を攻めたため救援に行った留守に岸岡城主佐藤氏の内応により神戸城を奪われた。しかし佐藤氏の家臣が利盛に寝返って岸岡城に利盛を迎えた為、利盛は長野城主工藤氏の応援を得て神戸城を取り戻した。その後六角氏は関氏に娘を嫁がせて友好関係を結んだ。北伊勢に侵攻した織田信長は滝川一益に神戸友盛氏を攻撃させたが、支城の高岡城主山路弾正が良く守り織田軍はいったん兵をひいた。翌年信長の三男信孝を友盛の養子にすることで和睦、友盛は沢城に隠居した。その後信孝に対する神戸氏旧臣の反抗もあったが押さえつけに成功、信孝は天守閣はじめ城および城下町の整備・拡充を実行した。本能寺の変で信長が斃れた後、信孝と兄信雄・羽柴秀吉間で争いが生じ、信孝は自害して果てた。神戸城には小島・林・生駒氏、そして滝川雄利が入城、このとき天守閣は桑名城へ移された。関が原後、一柳直盛が入封したが、のちに伊予に移り、天領となり城は破却された。その後石川総長が再立藩、居所を構え善政を敷いたが、のち下館に転封。本多忠統が入封した。忠統は将軍綱吉の小姓から若年寄に昇進、更に御勝手御用掛として財政難打開に努めた。また念願の城郭改築が許された。荻生徂徠の高弟かつ茶人として表千家の流れをくむ。この文人大名としての好尚は代々の藩主に受け継がれた。 |