日本の城跡

北畠氏館(別称:多気御所)・霧山城(多気城)

館跡・北畠神社
訪問日 S63年10月
ポイント 多気は吉野山と伊勢神宮の中間にあり、周りを険しい山に囲まれた小盆地である。盆地の中央の山麓に館を築き、眺望雄大な山頂に城を築いた。南朝北畠氏はここを本拠とし、田丸・大河内・坂内・藤方・木造などに一族を置き、八代に亘り南伊勢を支配した。城は詰の城とし、常時は山麓に住み北畠御所と称した。
印象 今回は館を訪問。北畠神社が鎮座し、一隅に庭園が残る。大きくはないが苔むした歴史を感じる、国の史跡名勝に。館の石組みが残る。
地図
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略史  村上源氏の名門北畠氏は後醍醐天皇に奉侍し、玉城城を本拠に吉野南朝の東方の基盤を築いた。しかし北朝方の足利勢の攻撃を受けて陥落、三男の顕能の時、街道の要所であり天険の多気に移り多気城を築城した。顕能は伊勢国司に任ぜられ重きをなし、南朝方の中堅として良く戦い一時は京都を回復したが、その後形成不利となり南北両朝の合体をみた。しかしその際約束した南北交代即位が守られず北朝の天皇が続いた為、満雅は南朝の小倉宮を奉じて挙兵したが岩田川の合戦で討死、以後は足利幕府の下で守護大名化した。織田信長が伊勢に侵攻、次男信雄を北畠家の養子にし乗っ取り、具教を暗殺し多気城は焼き払われた。その為具教の弟具新が挙兵したが失敗し、ここに名門北畠氏は滅亡した。
館跡石組
庭園
館跡
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霧山城図