日本の城跡

津城(別称:安濃津城)

本丸・模擬三重櫓
訪問日 S62年11月
ポイント 伊勢湾に面した伊勢平野の中央に位置し、参宮街道を押さえる重要地。津は坊津・博多津に並ぶ”日本三津”の一つと称せられる良港。城は北の安濃川、南の岩田川を防御とした平城。藤堂高虎は天険の伊賀上野城を戦争の時の本拠とし、平素は津城を居城とした。高虎は寺町や商人町を作り、参宮街道を城下町に引き入れる等城下町を整備した為発展、”伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ”といわれた。
印象 戦災により遺構はあまりないが、石垣・水堀が残っている。築城の名人藤堂高虎が修築、広大な内堀に囲まれた本丸であったが、今は南側が瓦礫で埋められ消滅したのが寂しい。秋の紅葉のシーズンに訪問した為、黄色や真っ赤な落ち葉が本当に美しく迎えてくれたのが印象深い。
地図
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略史  織田信長は伊勢平定を目論み長野城主長野氏一族と対戦、宿将細野氏の安濃城を攻撃したが頑強に抵抗された為信長の弟信兼を養子跡目相続とした。信兼は早速、津に新城を築城し長野家分家細野氏、雲林院祐基を攻め中伊勢を手中に収め、姓を織田信包とした。本能寺後、秀吉に仕えたが朝鮮の役で秀吉の不興をかい柏原に減封された。次に富田知信が入封、関が原で東軍に与し、西軍の毛利秀元ひきいる大軍に津城に立て籠もり善戦、結局開城したが大軍を止めた軍功で加増を受けた。そして宇和島に転封、次いで藤堂高虎が伊賀も領有し入城した。高虎は平時の津城、有事の上野城として大修築を行い城下の町割りを整備した。更に大阪の陣の軍功で加増うけ大大名になった。津藩独特のものに無足人と忍び衆があった。高虎没後、新田開発、問屋株の統制等努めたが、日光霊廟、富士山爆発による災害復旧等度重なる手伝い普請から藩財政は窮乏し、更に天災・凶作に見舞われ農村は疲弊、寛政の大一揆も発生した。高兌は窮民救済の義倉の設置や、植林・養蚕の奨励、藩校創設し文武を奨励した。幕末、高猷の時、連年の凶作、地震で財政は極限に、藩政は幕府の信頼を得て公武合体・尊王佐幕を唱えたが、鳥羽伏見の戦いでは一転して新政府に味方し幕軍敗北の因をつくった。戊辰時は新政府軍として転戦した。
模擬三重櫓
本丸
内堀
埋め門
  模擬三重櫓
  
西の丸庭園
西の丸枡形門
伊賀櫓台石垣
内堀・石垣
北多聞櫓台石垣
戌亥櫓台石垣