日本の城跡
安宅の関
略史 1185年、壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させた源義経は、兄頼朝の命令を無視して安徳天皇や二位の尼を自害に追い込み、更に平家縁の娘を側室に迎える等、不穏な動きを見せた為対立が生じた。義経は鎌倉に凱旋しようとしたが裁可は下りず、逆に鎌倉侵攻の動きを見せたことから、義経の領地は没収、更に源行家追討の命を断ったことから、兄弟の破綻は決定的となり、終には義経追捕の院宣が発せられるに至った。この為義経は頼みにしていた朝廷や配下の諸将の支援も得られず、京都を脱出し奥州藤原氏のもとに落ち延びようとした。頼朝は義経捕縛の為、全国の関所に出入りを厳重に管理するよう命じた。そして有名な”勧進帳”の舞台となり、関守富樫氏は弁慶の忠義に感動して一行を通過させたというもの。しかし歴史書に関所でのやり取りは史実とは異なるとされ、また安宅の関の記述が極めて少ないことから、関の存在も疑問視されている。 |