日本の城跡

安宅の関


安宅の関石碑
訪問日 H30年 5月
ポイント 安宅の地は律令時代に古代の官道である北陸道の安宅駅が設けられた交通の要衝。安宅の関は守護富樫氏が義経捕縛の為、日本海岸の梯川河口に設置したと言われているが、疑問。ただ義経追捕の院宣が発せられた時、これを名目に全国に守護・地頭が置かれ、武士の時代が始まったことが歴史的ターニングポイント。
印象 義経を捕縛するために急遽作られた関所とのことだが、なぜここに関所がと疑問であった。しかし後で考えてみると、街道、そして東北に繋がる海、更に内陸とを結ぶ梯川が集中しており、”安宅の渡”の地名もあったようで要衝であり、関所が置かれても不思議ではないと分かった。住吉神社の新人らしい巫女さんが一生懸命、神社の由来や安宅の関の説明をしてくれたので、難関突破のお守りをようすけの為に買った。
地図
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略史  1185年、壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させた源義経は、兄頼朝の命令を無視して安徳天皇や二位の尼を自害に追い込み、更に平家縁の娘を側室に迎える等、不穏な動きを見せた為対立が生じた。義経は鎌倉に凱旋しようとしたが裁可は下りず、逆に鎌倉侵攻の動きを見せたことから、義経の領地は没収、更に源行家追討の命を断ったことから、兄弟の破綻は決定的となり、終には義経追捕の院宣が発せられるに至った。この為義経は頼みにしていた朝廷や配下の諸将の支援も得られず、京都を脱出し奥州藤原氏のもとに落ち延びようとした。頼朝は義経捕縛の為、全国の関所に出入りを厳重に管理するよう命じた。そして有名な”勧進帳”の舞台となり、関守富樫氏は弁慶の忠義に感動して一行を通過させたというもの。しかし歴史書に関所でのやり取りは史実とは異なるとされ、また安宅の関の記述が極めて少ないことから、関の存在も疑問視されている。

公園


勧進帳記念像

住吉神社





梯川河口