日本の城跡

大聖寺城(別称:錦城)


本丸櫓台
訪問日 H30年 5月
ポイント 当地は水陸交通の要衝であり、越前国境にも近く、標高63mの里山ながら、大聖寺川・三谷川を天然の堀とし、南・東・北の斜面は急で、天険の要害をなしている等、重要な軍事拠点である。縄張りは山上の本丸を中心に北の丸・二の丸・西の丸・鐘ヶ丸・東の丸で構成される連郭式城郭で、谷を挟んだ両側の尾根筋にも郭群が置かれ、全体的には環郭式に近い構造である。本丸は二の丸との間に堀切、鐘ヶ丸との間に深い谷がある為独立した形。鐘ヶ丸は最大の曲輪で、南北45m、東西100mの広さをもち、西から南にかけて高さ4m、幅3mの巨大な土塁が総延長70mに及んでいる。また各曲輪の虎口形態や本丸の櫓台・大土塁等に堅固な防御の工夫が凝らされている。天守相当の本丸櫓や馬出部分に石垣が積まれる等、織豊系城郭の遺構が見られる。
印象 この城は縄張りが複雑、かつ結構広い。藪も多く、分かりずらかったが、よく見るとなかなかの縄張りだと思う。虎口・土塁・池・土橋・横堀等々、一工夫されており見るべきものが多かった。ただアップダウンも多く疲れた。駐車場脇の「贋金造りの洞穴」には驚いた。前田俊直の休息所「長流亭」が木立に隠れてなかなか見つからず、帰り際に偶然発見、良かった。
地図
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略史  鎌倉時代、狩野一門が築城、南北朝以後は加賀一向一揆の重要な軍事拠点の一つとなった。戦国時代、越前の朝倉宗滴が加賀に侵攻し、南郷城などとともに大聖寺城を陥落させ、加賀一向一揆勢に対峙する城となった。その後越前を平定した織田信長は、加賀にも侵攻し、江沼郡・能美郡を占領し、柴田勝家に命じて日谷城と共に大聖寺城を修復させた。勝家は両郡で勃発した一揆を鎮圧した際、大聖寺城に与力の佐久間盛政、次いで拝郷家嘉を入城させ、越後の上杉氏の南下に備えた。信長死後、羽柴秀吉との後継争いに敗れた勝家は自刃、大聖寺城は北庄城に入った丹羽長秀の属城となり、長秀与力の溝口秀勝が入城した。その後秀勝は新発田に転封、小早川秀秋の家臣、山口宗永が入城した。関ケ原の戦いで、宗永は西軍に与した為、東軍の金沢城主前田利長の攻撃を受け落城、宗永は自刃した。関ケ原の軍功で大聖寺城は、前田利長が領したが、元和の一国一城令により廃城となった。しかし利常の時、分地が認められ、子の利治に大聖寺を分知し錦城山の麓に陣屋を構えた。以後大聖寺前田氏は九谷焼陶器の産業育成に尽力するなど、14代続いて明治を迎えた。

遠望

忠霊碑

登城口

贋金造りの洞穴

登城坂

本丸方面大手道

東丸へ

東丸腰曲輪

東丸

山麓の錦城小(旧大聖寺陣屋跡)

東丸腰曲輪

曲輪

下馬屋敷跡


番所屋敷跡へ

番所屋敷


曲輪土塁

本丸腰曲輪切岸

鐘ヶ丸腰曲輪虎口

同腰曲輪


同の急崖

鐘ヶ丸虎口

鐘ヶ丸

同の急崖

鐘ヶ丸と大土塁

鐘ヶ丸


同の大土塁上

同大土塁


曲輪

曲輪

局谷



本丸切岸

本丸と鐘ヶ丸間の堀切

西の丸方面

西の丸と本丸間の堀切

竪堀

西の丸


西の丸虎口

馬洗い池


三の丸方面

三の丸


曲輪

土橋・二の丸虎口

二の丸



土塁

二の丸虎口・土橋

馬洗い池

本丸へ

本丸虎口

本丸

本丸櫓台

本丸

本丸土塁

本丸

本丸腰曲輪

本丸虎口

馬出曲輪


曲輪

大手道へ

曲がった道と土塁

登る敵を狙う土塁

狭くなった登城道

曲げた登城道

本丸方向

長流亭