日本の城跡

金沢城(別称:尾山城・金城)

石川門・百間堀
訪問日 H14年 6月他
ポイント 一向宗と幕府対策が特色。一向一揆の中心、真宗王国の府である金沢御坊を佐久間盛政、前田利家が真宗的法城を徹底的に打壊し、堀・土塁等造成、戦国、近世城郭に変貌させた。又宗徒が多い寺内町の経済力を削ぐ為、尾張町・米町等の新町を造り有力者に特権を与え、更に寺院を寺町等に集め、その中に一向宗寺院を点在、対立させた。次に我国最大の大名として絶えず徳川幕府の目を気にした。高山右近が築城に貢献した当城も石高に比し規模を小さくした。但し、東照権現社・寺町寺院群・兼六園等駆使し防備堅固とした。又歴代藩主の多くは将軍家から正室を迎え、血縁関係を深めたり、幕府老中の松平定信に”兼六園”(広大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望を備えた)の命名を依頼したりした。しかしこの保守性はお家は守ったが、最大の大藩でありながら維新時なすところなく新政府の主流になれなかった
印象 100万石前田家の居城として、栄華を極めた城。明治以降一貫して国有地となり、戦前は第九師団司令部、戦後は金沢大学の用地となった為、かなり建物関連で破壊されたが縄張は基本的に残っている。遺構は鉄砲玉への転用を考えた鉛瓦の石川門・三十間長屋・海鼠塀・石垣等あり、特に石垣はその時代の技術を映し、野図積・打込ハギ・切込ハギが見られ興味深い。近年の金沢大学の移転に伴い、菱櫓・五十間長屋・橋爪門・続櫓等復元され、過去の栄華が甦りつつあり今後共楽しみだ。
地図
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略史  金沢城の前身は"百姓の持ちたる国”の本拠、加賀一向一揆の金沢御坊であり、後の本丸付近に約百年の間真宗王国の府が存在した。しかし織田信長の部将柴田勝家・佐久間盛政軍の猛攻を受け御坊は崩壊、佐久間氏が入城して戦国城郭造りに着手、名称も尾山城と改称した。そして信長死後、豊臣秀吉が柴田氏との後継争いに勝ち前田利家を入城させ加賀、越中、能登を支配させた。前田氏は名も金沢城と改め、近世城郭として本丸・石垣・堀等を修築した。関ヶ原で徳川に与した利長は加増うけ大大名となり、利常の時城壁修築等で幕府から嫌疑を受け危機に立たされたが、必死の弁明と徳川家との縁を深め乗り切った。この時領地を金沢、小松、大聖寺、富山に分割した。その後も農政改革、産業振興、凶作対策等藩政安定を図ったが、徳川縁故としての出費も多く財政窮乏は続いた。なんとか切り抜けたが家督相続争い”加賀騒動”も発生している。将軍家と近い関係から藩風は保守的であったが、最後の慶寧は勤王論に共感し、禁門の変の時病気理由に退京し謹慎処罰を受けた。戊辰時、なすところなく佐幕派として終始した為、戦費と出兵を負担させられた。
石川門・隅櫓
石川門(高麗門)
櫓門
隅櫓
鶴の丸・東の丸
三の丸・鶴の丸
三の丸・五十間長屋
橋爪門・続櫓
二の丸石垣・堀
鶴の丸堀・同続櫓
 
本丸方面
本丸石垣
本丸鉄門
石垣
二の丸と本丸間の堀
同極楽橋
三十間長屋
本丸乾櫓跡から二の丸方面
   
白鳥堀から石川門
白鳥堀石垣
大手堀
大手門(尾坂門)
大手門
大手門
   
河北門下池
新丸から二の丸方面
  
新丸石垣・二の丸菱櫓
 
新丸・北の丸方面
三の丸
三の丸石垣
河北門
以下兼六園
以下市内
浅野川