日本の城跡

足助城

遠望
訪問日 S63年 4月、H28年 5月
ポイント 尾張から三河を経て信州へ通じる飯田街道の要衝に位置する。飯盛山に築かれた山城。中腹に足助氏館跡に足助氏菩提寺香積寺がある。この城を囲んだ大小の峰々に、足助城を含めた足助七城が築城されている。
印象 城跡付近は香嵐渓といわれる名勝で、紅葉の季節には全山が真っ赤に燃えるとのこと。新緑の春も桜吹雪でこれもまた良し。城跡の直下に飯田街道が通る。再訪。公園として整備。小規模ながら、郭・堀切があり、小屋・館が復元されている。中世の豪族の山城がこんなものかと参考になった。
地図
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略史  平安末期に尾張源氏の血を引く山田重直の子重長が足助の地に住み足助氏を名乗った。重長は源為朝の娘を娶った縁から保元の乱後、為朝の孫為家をかくまった為平家の追討を受け足助城は落城し重長は落ち延びた。しかし重長の子重秀が足助に戻り、以後子孫が一帯を支配した。南北朝期、南朝方に尽くしたが宗良親王と共に東国に去って廃城となった。戦国期、鈴木氏が居城したが、その後武田氏・徳川氏が支配。徳川時代には天領後、白河藩本多忠義の子忠周が交替寄合になり足助に陣屋を構え、更に寺社奉行に任じ加増、足助藩が成立した。しかし勤務不良により失脚廃藩となったが、後に忠周は寄合旗本に返り咲き足助陣屋で明治まで在所した。

香積寺

香嵐渓



再訪、公園入口

遠望

堀切跡

南の丸切岸

同下の谷

南の丸腰曲輪T

同の切岸

南の丸腰曲輪U

西の丸と井戸曲輪との分岐

井戸曲輪

南の丸切岸



西の丸腰曲輪への分岐

西の丸腰曲輪T

西の丸

同・西物見台

同・木柵

同・堀切

南の丸へ、冠木門

同地にある本丸腰曲輪V

南の丸台所長屋・竃

同小屋内部

同・小屋・木柵

同からの南物見台

本丸と南物見台間の堀切と木橋

南物見台

本丸への木橋

南の丸小屋・石置き屋根

香積寺方向

北の方向を見る

本丸・高櫓


同・門

同・長屋

同・長屋

同・内部

同から南物見台

西物見・足助街並み方向

北腰曲輪T

北腰曲輪U

足助への風景