日本の城跡
武節城
(別称:地伏城)
遠望・黒田川と名倉川合流地点より
訪問日
S63年 4月
ポイント
信州との国境に近く、飯田街道と伊那街道が合流し信州への道が通る要衝。。東に名倉川、北に黒田川が流れ、山地につながっている南は尾根を掘りきって独立させている。階段状に曲輪を配し、本郭と下の曲輪には5m.の高低差を設け、更に両側からの谷を自然堀に、接続部分を堀切にし防備を固めている。
印象
かなり山深く入った町、もう少しで信州だ。遠目では単純な平山城に見えるが、川、階段状の曲輪、堀、堀切を駆使しており興味深い。曲輪が地元民の墓に有効利用されていた。
地図
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略史 田峯城主菅沼定信が支城として築城し、一族の菅沼十郎などを城代として置いた。武田信玄の三河侵攻により本城田峯城と共に軍門に下った。長篠の合戦に敗れた武田勝頼が田峯城主菅沼定忠の案内で田峯城に入ろうとしたが、留守居役の定忠の叔父今泉道喜斎に拒まれやむなく武節城に逃れ甲州に帰っている。その後徳川の武将酒井忠次が攻略、長篠合戦で軍功あった奥平信昌に与えられたが、徳川氏の関東入部に従い廃城となった。
城碑
登城坂・土塁
同
主郭・土塁
土塁・曲輪
曲輪・堀
曲輪
空堀
階段状曲輪
遠望