日本の城跡

長篠城(別称:末広城・扇城)

遠望・寒狭川と三輪川の合流点
訪問日 S63年 3月、S63年12月
ポイント 決して大きな城ではない。三輪川と寒狭川が合流して豊川になる合流点に築かれている。二つの川の断崖が天然の城壁となり、川が濠となった要害。北方の陸続きには曲輪を複雑に配し、土塁・堀で防御している。奥平信昌は人質の妻・弟を犠牲にしても守り抜き、その後の徳川家での立身を勝ち取った攻防戦であり、決戦は設楽ヶ原にうつり、騎馬戦と鉄砲隊、つまり中世と近世の戦術の変わり目となった城。
印象 この城跡を見るポイントは合流後の豊川に架かる鉄橋だ。昔は水量がもっと多く急流であったであろう、崖と水でがっしり守られていた。弱点の北方はいくつもの曲輪と堀で防御、五百の兵で一万五千の大軍をひきつけ、結果設楽ヶ原での織田・徳川軍の大勝に結びついた城だ。
地図
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略史  美濃国土岐氏の支流である菅沼氏は、資長の時三河入りし東設楽の豪族伊藤氏を従え、氏族が各地に散って勢力を東三河に伸長した。子満成が長篠に居住し次の元成が長篠城を築城した。ちなみに満成の兄、定成の子貞行が島田菅沼氏、定信が田峯菅沼氏、田峯菅沼氏から野田菅沼氏、野田菅沼氏から新城菅沼氏が分派し発展した。長篠菅沼元成は今川氏の武将として築城したが、今川氏滅亡後徳川家康に仕えた。しかし武田信玄の遠江侵攻により田峯菅沼・作手奥平氏と共に信玄に従ったが、一族の内には織田・徳川方に加担するなど小豪族の運命が如実に現れている。長篠菅沼氏は正貞の時家康に攻められ信濃に脱出後没した。ただ子政勝は家康に取り立てられ、後紀伊頼宣の家臣になった。長篠城には城番を置いたが奥平信昌の時、武田勝頼が来攻、再び家康に寝返った奥平氏を猛攻し長篠城攻防戦、そして設楽ヶ原での一大決戦となった。その間信昌の家臣鳥居強右衛門の忠義行動が称賛されている。合戦後、信昌は新城郷ヶ原に築城して移った為長篠城は廃城となった。
本丸
天守台
本丸
寒狭川
合流後の豊川
土塁
家老屋敷跡
周辺
鳥居強右衛門磔碑
   
鳶ヶ巣山方面
設楽ヶ原古戦場
騎馬武者防禦柵
設楽ヶ原