日本の城跡

西尾城(別称:西条城・鶴城・錦丘城)

城碑
訪問日 S63年 1月
ポイント 現在は本丸・土塁・堀が残るのみだが、往時は矢作川とその支流に囲まれた碧南台地の北から南に張り出した段丘に構築され、下は沼地という要害。当城の三層の天守は本丸でなく二の丸に構えているが、これは田中氏か移築したもので理由は?又”総構え”造りで町家まで取り込んだ外堀を設け、環濠集落のような設計。
印象 今はとても要害のようには見えない。城址公園になっており、水堀・石垣・土塁が残っている。家康は早くから当城の重要性を認識し、天守の建築や譜代の藩主を置いたようだ。
地図
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略史  三河守護足利義氏が承久の乱の軍功で居館を構えた。義氏の嫡子長氏は吉良氏と改め十四代に亘り領有したが戦国末期に今川氏の支配下となり、牛久保城主の牧野成定が守っていたが、松平方の酒井正親の攻撃を受け落城した。家康の関東入部により田中吉政が入城、関ヶ原後本多康利が入封立藩した。その後大給松平・本多・太田・井伊他頻繁に藩主が交替後大給松平氏が入封し定着した。乗完は老中として寛政の改革で松平定信を補佐、乗善も老中として世嗣家定の傅役に、安政の大獄で井伊直弼を補佐し佐幕派政権の強化に一役。藩政では財政節約、藩校修道館を創立、医学校の済生館を建てた。維新時逸早く新政府に恭順、城郭を取り壊した。
本丸
本丸・表門・石垣
姫の丸・資料館
本丸・水堀
石垣