日本の城跡

野田城

遠望
訪問日 S63年 3月、S63年 7月
ポイント 東と西に谷が深く入り込み、この谷に突き出した丘陵の台地に本郭・二の曲輪・三の曲輪が一直線に並んだ連郭式城郭。各曲輪の境に段差がなく、本郭と二の曲輪のみに土橋を架けて結び少数兵力で効率よく動ける巧妙な縄張りと周囲の谷・沼田等天険の要害が武田の大軍を寄せ付けなかった。又各曲輪の境に法面が殆んどない形態は三河で他にない特徴である。
印象 武田信玄が上洛の途上、鉄砲で撃たれ上洛が夢と消えた因縁の城。ということで興味津々でいくも、比較的小さな城で、堀もそんなに深くも大きくもなく、周囲の自然も変ってしまったせいか天険の要害の雰囲気はなかった。この城を陥すのに時間がかかったのは何故か、再度訪問したがいまいち分からなかった。
地図
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略史  山家三方衆の一人、田峯菅沼氏の菅沼定忠の三男定則が富永直郷の後継として入り、野田菅沼氏の祖となった。野田菅沼氏は今川氏に仕えていたが、桶狭間で今川氏が討死後松平元康(徳川家康)に属した。菅沼定盈が城主の時、武田信玄が上洛をめざし東三河に侵攻、野田城も攻撃された。定盈は徳川からの援将松平忠正と共に武田の大軍を相手に必死に防戦したが、井戸の水を抜かれるに及び降伏落城した。この時信玄は病の悪化か、城中から聞こえる笛の音に聞き惚れ城に近づいた折、城兵鳥居氏の火縄銃の狙撃で重症を負ったかで死去、上洛は夢と消え武田氏滅亡へ繋がった。なお定盈は捕らえられたが人質交換でされ、家康にその武勇と忠誠ぶりを賞され新たな土地を与えられた。
城碑
 
稲荷・本丸
本丸・堀
 同・土塁
 
本丸堀
城の周辺に淵・遠望
法性寺・信玄が狙撃された場所がある
 
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