日本の城跡

岡崎城(別称:龍城)

復元天守・龍城神社
訪問日 S63年 3月
ポイント 岡崎は東・西日本の接点で三河平野を横断する東海道の渡河点で軍事上重要地であり、古くから矢作の宿駅としても発展し、”五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く”と伝えられた。岡崎城は西に矢作川が流れ、その支流の菅生川と伊賀川が合流する台地に築城された。そして本丸の北・東側は空堀と二の丸・三の丸・郭で防御している。又岡崎は大林寺はじめ神社・仏閣が石高の割りに多く、城の防衛上も重要な役割を担った。更に田中吉政は近世城郭に改築、合わせて堀で囲んだ総曲輪の町を形成、東の籠田の総門から西の松葉の総門まで”岡崎の二十七曲がり”を造り、桝形と同様の軍事防御とした。
印象 家康ゆかりの城。矢作川の水運が盛んで昔から宿場町としても栄えた為産業・文化が花開き、街並みからも歴史を感じる。動物園・城跡公園として市民の憩いの場となっており、遺構は本丸周辺に残っている。伊賀川から見る水堀・石垣・天守の姿がいい。又市内の寺群・八丁味噌の味噌蔵も印象的だ。
地図
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略史  三河守護仁木義長の守護代西郷氏は東矢作に居館を構え、十五世紀中葉、稠頼の時に今の本丸の地、龍頭山に城を築いた。同じ頃、西三河の山間地から台頭した松平党が平野部に勢力を伸ばしてきた為、西郷氏は松平信光の子光重を養子にして家を守ろうとした。しかし実子信貞の時、安祥城主松平清康によって城を追われ、以後岡崎城は家康の代まで松平氏の本拠となった。清康が尾張へも侵攻するなど勢力拡大に努めたが、誤って家臣に殺害されてからは嗣子広忠が幼少だったこともあり、今川、織田両氏の圧力に苦しんだ。広忠死後、子竹千代のちの家康は今川の人質となった為岡崎城は今川氏の城代支配となった.。桶狭間の合戦で今川義元が斃れると家康は自立して岡崎城を本拠に勢力を蓄えた。家康は今川氏の旧領である遠江に侵攻後は浜松城へ移り、嫡男信康が岡崎城主となった。しかし武田方と通じているとの嫌疑から信康は自害させられ、以後城代が支配した。家康の関東入部後は豊臣の武将田中吉政が入城し、城郭、城下町の整備に注力した。関ヶ原の軍功で田中氏は久留米に転封、代って家康の腹心、本多康重が入封、城下町は大いに栄え、三層の天守が築かれた。横須賀転封後、徳川家を支えた名門水野忠善が入封し幕政を担った。次に松平氏、そして再度本多氏が入封、明治に至った。幕末、忠民の時三河最大の加茂一揆の勃発や矢作川の決壊等で財政は逼迫したが、幕府老中として和宮降家に尽力した。
復元天守・本丸
  
龍城神社
   天守台石垣
   
井戸櫓脇の井戸
本丸門
持仏堂曲輪空堀・石垣
 
  
本丸空堀・石垣・復元井戸櫓
 
本丸空堀
自然の谷を加工した空堀
  
復元天守
伊賀川沿い坂谷門
水堀・風呂谷曲輪
家康のえな(胞衣)塚
家康公産湯の井戸
伊賀川から見る・坂谷曲輪・天守