日本の城跡

新城城

土塁
訪問日 S63年 3月
ポイント 狭隘の長篠の地に比し、新城の地はもともとは郷ヶ原と言われた原野。更に”山の湊”と称せられる豊川の水運と信州方面への伊奈街道を結ぶ中継地であり、山家三方の入口等要衝の地である。当城はその豊川の断崖上に構えている。
印象 城跡には市役所・小学校が建ち遺構は少ない。小学校の校庭の隅に土塁と西側に谷堀が残るのみ。豊川に臨む断崖が往時の要害ぶりを思わせる。豊川の対岸にある桜淵公園は市民の憩いの場で、桜がちらほら咲き始め賑やかだった。
地図
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略史  長篠の合戦後、その軍功は高く評され家康の命で奥平信昌は新城城を築城した。長篠城の建造物はすべて当城に移築された。信昌は家康の長女亀姫をこの城で娶った。奥平氏はその後立身し、家康の関東入部で信昌は上野富岡に、長男家昌は宇都宮城主となり、子孫は中津藩主として明治を迎えた。四男忠明は家康の養子となり、松平姓を許され子孫は忍藩主として明治を迎えた。新城城はその後吉田城の池田輝政の所領になり、姫路移封後天領、於大の方の弟水野分長が入城立藩、子元網加増転封し廃藩。そして菅沼定実が旗本として陣屋を置いた。
  城碑
新城小・本丸
新城小・旧藩校
豊川