日本の城跡

田峯城(別称:田嶺城)

遠望
訪問日 S63年 4月
ポイント 標高500m.、比高50m.の田峯台地の丘陵部にある。三方を絶壁にした縄張りで、背後の絶壁下に豊川をひかえた天然の要害。武節城のように段階状に曲輪を配している。しかし土塁はない。奥三河の中世後期の代表的な城。
印象 奥三河の山また山、奥深い所。途中、城が見上げるような山の頂上にありびっくり。どうしたらと思っている内に道なりに山の内側に出てまたびっくり、小山程の城山だった。段階状に曲輪が配されており、蔵屋敷等案内も整備されている。山頂に模擬天守があり、眼下の豊川を眺めて一休み。
地図
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略史  作手村菅沼から興った菅沼氏は定成の時、田峯に築城し奥三河一帯に勢力を伸張した。"山家三方衆”の一人であり、他は長篠城の菅沼氏、作手の奥平氏である。田峯菅沼氏は今川氏に属したが、定継の時松平清康の配下となり、更に清康が家臣に殺害され織田氏が三河に侵攻したのを機に、定継は作手奥平氏と共に織田氏に気脈を通じた。しかし一族間で意見が対立、弟の布里城主定直らは今川氏に属した為骨肉相争う結果となり、今川義元の援軍を得た布里勢らに敗れ討死した。この結果布里の定直らが定継の遺児定忠を補佐したが、その後徳川家康より所領安堵され定継は田峯城に復し、武節、新城城らも領した。しかし武田氏の誘いに応じ、三方ヶ原・長篠の合戦等武田氏の三河侵攻に力戦した。長篠の合戦後勝頼と共に田峯入城を阻止された定忠は、奥平氏に攻められ武節城を立ち退き信濃伊那郡に落ち延びたが翌年田峯城を急襲して叔父の定直、今泉道善と一族郎党を討ち果たし信濃に引き上げた。定忠は勝頼自刃後、徳川軍の牧野康成と伊那郡で戦い討死している。一族相争う攻防は終了し、田峯城は定直の嫡子定利が宗家の遺領をついた後、奥平信昌が領したが徳川氏の関東入部で廃城となった。
遠望
曲輪
土塁
   登城口
   
空堀・曲輪
蔵屋敷
堀切
主郭城塁
主郭・模擬天守
 眼下の豊川
主郭にある墓石
主郭物見台
城碑
 
井戸曲輪