日本の城跡

知立城

御殿跡・本丸
訪問日 S63年 3月
ポイント 知立は東海道五十三次の宿場町でもあり、知立神社は東海道三社の一つ。この神主が豪族として知立城を支配、中世初期にいくつか例がある。
印象 児童公園になっており、ここに城碑と御殿碑がある。石垣があるがこれは当時のものではない。城の遺構は殆んどないが、町の歴史は古く近隣の知立神社や了蓮寺・宿場等見るべきもの多い。
地図
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略史  知立神社の神主氷見氏は西三河の豪族で、代々知立城主も兼ね一帯を支配した。南北朝期には碧海地方にも勢力を伸ばしたが、戦国時代には隣接する水野氏に臣従し、更に婚姻により関係を深めた。氷見貞英は水野忠政の女を妻とし、その娘お万の方は家康の側室となり、後の結城秀康を産んでいる。岡崎の松平氏の勢力伸張に伴い一族間で主従が別れたが、松平広忠の死後今川氏の支配下になった。桶狭間で今川義元が討死すると、知立城に駐留していた今川武将は一戦もせず城を捨て去った。その後刈谷城主水野忠重が廃城となっていた知立城跡に御殿を建て、以降将軍家の宿泊所にあてられたが元禄の地震で倒壊した。
  城碑
  
知立神社
  同・多宝塔
   
了雲寺
  本陣