日本の城跡

吉田城(別称:今橋城)

入道櫓・本丸
訪問日 S63年 6月
ポイント 豊川と朝倉川の合流する丘陵の地にある。そして北側に深く切れ込んだ豊川の谷を控え、それを背に本丸・二の丸、西側に西の丸・三の丸を配した半輪郭式の城郭。土塁や堀を設け、その周りに侍屋敷を置き、更に外周に総堀を廻らしている。豊川を背にしたいわゆる”背水の陣”になり、本丸北の石垣はそそり立つように高く築いている。三河徳川時代、三河・遠江境の重要拠点として要の城。東海道に伝馬制が施行された時、第一号が吉田の宿で、川の舟運が栄えお伊勢参りで活気に溢れた。
印象 豊橋公園として整備され昔の面影は少ないが、豊川沿いの隅櫓・石垣・堀・土塁が残り当時を思わせる。池田輝政当時、十五万石の居城にふさわしい大規模の縄張りにしたが、その後歴代みな中小大名にとどまった為石垣部分は少なく土塁になっている。中世風の城で質素、明治に至るまで未完成の城と言われたらしい。
地図
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略史  今川氏配下の豪族で一色城主の牧野古白が室町末期に三河侵攻の拠点として築城した。今橋城と呼ばれた。しかし松平長親の攻撃を受け防戦及ばず牧野古白は自刃した。今橋城には田原城主戸田憲光の次男金七郎が入城したが牧野氏の孫、成三が奪回し吉田城と改めた。その後一時戸田金七郎に奪われたが今川義元が攻略支配した。桶狭間後、徳川家康は東三河に進出、今川氏の拠点を攻略し吉田城も奪取して酒井忠次を入城させた。家康の関東入部後酒井氏は下総臼井に移り、池田輝政が入封したが関ヶ原後姫路に移封し、竹谷松平家清が立藩した。その後深溝松平・水野・小笠原・久世・牧野等譜代大名が頻繁に入転封し、大河内松平氏が再入封し明治まで在藩した。松平氏は再三幕府の要職を務め、信明の時松平定信を助けて寛政の改革を推進、又藩校時習館規条を制定し教育の刷新を図った。幕末は開明派として行動した。
虎口
冠水門跡
案内・石垣
石垣
入道櫓入口
櫓台石垣
   
 豊川沿い石垣
 
   入道櫓・高石垣
   
空堀
石垣
石垣・空堀
豊川・遠望