日本の城跡

岐阜城(別称:稲葉山城)

遠望
訪問日 S62年12月、H31年 2月
ポイント 金華山は岐阜市東北部の主峰。濃尾平野の北端にあり、山麓を流れる長良川が当地より平野を形成する。濃尾平野を一望。美濃を囲む養老・鈴鹿・伊吹・白山・木曽の山並みを見渡せる金華山は不破・木曽の関門に加えて東海道・東山道の要路を制する。信長は禅僧沢彦にはかり、周の文王が”岐山より興って天下を平定した”という中国の故事より岐阜城と改名した。城主居館は麓の千畳敷といわれる地に、4階建ての豪華絢爛たる館があったと宣教師フロイスが書いている。
印象 長良川沿いに立つ、厳しい金華山の頂にある。とても歩いて登れないので、ロープウエーに頼る。ロープウエーの駅から天守閣まで狭い道を歩く。まさしく山城。途中、高所かつ岩山なのに井戸があった。殆んど平地はなく狭い頂に天守・櫓がある。信長がなかなか落せなかったのも肌身で分かった。居館は山麓の千畳敷と言われる場所にあったが今は公園になっている。今後発掘・復元の予定あり。途中、城好きの青年と会う。全国を廻っているとの事。少し話し込む。居館の発掘調査が進んでいるとの情報で登城するも、作業終了でカバーが掛けられているところも多く残念。4階建ての豪壮な居館がイメージ出来なかった。
地図
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略史  鎌倉時代初期に幕府政所の執事、二階堂行政が築城。その後娘婿の藤原朝光が在城し数代を経た後、室町時代には美濃守護土岐氏の守護代斉藤利永の居城となったが、斎藤氏が加納城を築城し移った為家老の長井氏が当時の稲葉山城に入った。応仁の乱で土岐氏は京都に出陣、その間守護代の斉藤妙椿が勢力を蓄えた。その後土岐氏が帰国し川手城に拠ったが、妙椿の死後、土岐氏の後継争い、更に家臣の権力争いが勃発した。その頃、油商人で山崎庄五郎と称した、後の斉藤道三が登場する。庄九郎は旧友の常在寺の住職、南陽房の紹介で長井利隆の面識を得、更に守護土岐政頼の弟・頼芸に召抱えられ、名も長井氏の家老西村氏の名跡を継ぎ西村勘九郎と改名した。勘九郎は頼芸を助けて守護の政頼を追い落とし、守護代の実権を掌握、次いで世話になった長井氏を殺し稲葉山城を奪い、長井新九郎と名乗った。更に守護代の斉藤利良が病没すると、斉藤家に入り名を斉藤利政と改め,守護代となった。その後守護頼芸を追放し、美濃一国を奪取した利政は入道して道三と称し、稲葉山城を子義竜に譲り鷺山城に隠退した。しかし義竜に替え、明智氏の娘との間の子、竜元を擁立した為、義竜に攻められ一代の梟雄、蝮の道三も討死した。道三の娘婿となった織田信長は義竜の後継・竜興を攻めたが、竜興は良く守った。しかし墨俣城の築城や西美濃三人衆・稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の内応もあり、ついに落城した。信長は入城し岐阜城と改め、天下布武の意気で将軍義昭を奉じて周辺国を領有、他方楽市の設置等城下町を整備拡充した。信長は天下統一の為、京都に近い安土に移り、岐阜城は嫡男信忠が入城した。しかし信忠は本能寺の変で二条城で討死、信長三男信孝が入ったが、豊臣秀吉に対し柴田勝家と共に争った末自刃した。秀吉は池田信輝を封じ、信輝は嫡男元助を入城させたが長久手の戦で討死、輝政が在城した。小田原の陣後、小吉秀勝が入城したが朝鮮で病没、織田信忠の子、秀信が入封したが、関ヶ原の役で西軍に与した為東軍の猛攻にあって開城した。役後、奥平信昌が加納に封じられると、本多忠勝により天守閣・石垣等が加納に移築され、岐阜城は廃城となった。
遠望
上格子門
武者走り
天守石垣
   復興天守
  
 
隅櫓(資料館)
 
   復興天守・岩壁
  
井戸
   
登城坂
天守より
以下再訪時撮影

天下第一の門・大手道
切立った岩山 木下藤吉郎と千成瓢箪記念碑
堀切

二の丸下台所跡

同・天守
石垣跡

井戸跡

天守・土橋・石垣

山麓御殿跡・虎口

同・土塁

同・土塁

御殿跡

同碑

斎藤氏時代の石積と階段
御殿跡













重臣屋敷跡




復元冠木門

山頂天守方面