日本の城跡

郡上八幡城(別称:積翠城・郡城)

山頂の石垣・塀・模擬天守
訪問日 S62年 5月
ポイント 長良川が支流の吉田川と分かれた所に郡上八幡はあり、城は更に吉田川と支流の小駄良川の分岐点の八幡山頂にある。城下は飛騨・越前と美濃を結ぶ奥美濃の要衝である。古くから郡内に荘園もあり、政治・軍事上の要地であった。城は山城と麓城の二城からなり、山城には石垣上に塀を廻らした程度で殆んど建物はなく、麓に壮大な殿舎があった。これは山城が急峻な地形で要害堅固であった為、幕府に配慮したのである。
印象 こじんまりした城であるが、堅固な山城である。飛騨・美濃の交通の要衝。もとは無かった天守が昭和八年に木造で建てられた。そして小京都と呼ばれるように武家屋敷・商人町・職人町・鍛冶屋町等しっとりとした、たたずまいの城下町である。更に名水で知られる”宗祇水”で代表されるように町中に清流が流れ、また夏には徹夜踊りで有名な郡上踊りで賑わうなど見所いっぱいである。
地図
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略史  鎌倉幕府創業の功臣千葉氏の一族、東胤行は山田莊の地頭となり阿千葉城を築いたのが郡上の城の起源となる。南北朝期には篠脇城に、戦国期には越前朝倉氏の侵攻を受け東殿山に新城を築城して移った。しかし常尭の時、氏族の遠藤氏と不和となり逆に遠藤盛数に攻め滅ぼされてしまった。盛数は砦があった吉田川対岸の八幡山に新城を築城して移った。遠藤氏は織田信長に臣従したが、信長死後豊臣秀吉に反抗した為、秀吉に減封のうえ、転封された。次に稲葉貞通が入封し、城郭は増改築されたが関ヶ原の役で当初西軍に与した為、東軍の遠藤氏は城を攻撃した。その後和議が成立、役後遠藤氏は旧領を復し、東軍に転じた稲葉氏は臼杵に加増転封となった。遠藤氏は城郭の修築、城下町の整備を進めたが、城主の急逝で嗣子問題が起き、減封のうえ転封に。その後井上・金森氏が入封したが、金森頼錦の時財政窮乏から年貢徴収法を変えようとして農民の抵抗による宝暦騒動が起き領地没収となった。次の青山氏は明治まで在藩した。戊辰時勤王方を表明したが、裏で佐幕方に派兵している。
   遠望
  
   石垣・模擬天守
   
石垣
空堀・石垣
  模擬天守
    
本丸より
   宗祇水