日本の城跡

金山城(別称:鳥峰城)

遠望
訪問日 S62年12月
ポイント 標高263m.の烏峰山頂にあり、足下に木曽川を踏まえ、兼山湊を押さえて物資集散の要地であった。現存の城構えは邸館天守で、天守と小天守の複合形態等安土城と同様な手法で構築されたもの。西方を大手とし、西から出丸・三の丸・二の丸を配しこれに腰曲輪を付属、本丸防禦としている。出丸・二の丸・本丸は櫓を持つ他、石垣、堀切がある堅固な山城である。
印象 峡谷をなす木曽川の南岸にある山城。車で大手門近くまでいけるので助かる。本丸には累々たる石塁が残り、天守台から木曽川の流れが眼下に見える。本丸・二の丸等遺構は良く残っている。城下町の兼山には白壁の家並みもあり物資集散地として栄えた面影が残る。
地図
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略史  関白近衛稙家の妾の子、斎藤正義が築城した。正義は比叡山の修行僧であったが、武家として身を立てようと斎藤道三を頼り、斎藤の姓を許された。正義は道三の信任を得て東美濃攻略の将となり、その拠点として兼山の山頂に鳥峰城を築いた。三層の天守を持つ堂々たる城郭であった。しかし道三は正義の勢力が苗木、美濃加茂、加治田、久々利等を支配するに及んで恐れ、久々利城の久々利悪五郎に命じて殺害した。その後、美濃を領有した織田信長は廃城になっていた鳥峰城に森可成を入れ、修築して金山城と改名した。そして可成は姉川の合戦で討死し、次の嫡男長可は武田勝頼攻めで信濃を転戦、勝頼滅亡後信濃四郡を加封され川中島海津城主となった。しかし信長が斃れると金山城に帰城し、可児・加茂・土岐・恵那等を攻略して東美濃を制圧。その後豊臣秀吉の配下となったが長久手の戦いで討死し末弟の忠政が城主となった。そして秀吉の死後、忠政は天下の実権を握りつつあった徳川家康によって海津城に移された為再度廃城になった。金山城の建物は解体して木曽川を下り犬山城の建物に使用された。(金山越え)
  本丸城碑
  
天守台・小祠
天守台
本丸
同・石塁
大手門跡
城下・城山
天守台から木曽川・兼山ダム方面
つり橋から岐阜方面